コリヤ・ブラッハー J.S.バッハ:無伴奏パルティータの夕べ
〇2025年1月21日(火)19:00〜20:35
〇トッパンホール
〇R列20番(最後列から2列目、上手側)
〇バッハ「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番ト短調」BWV1001、同「無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第3番ホ長調」BWV1006
同「同第1番ロ短調」BWV1002、同「同第2番ニ短調」BWV1004
(繰り返し全て実施)
+同「同第1番」より「クーラント」(ドゥブルなし)
![]()
バッハの骨格を明確に
アバド時代のベルリン・フィル、ルツェルン祝祭管弦楽団のコンサートマスターを務め、現在はソリストとして活躍するコリヤ・ブラッハーがバッハの無伴奏ヴァイオリン作品に挑む。しかもソナタとパルティータを網羅するのでなく、ソナタの1番とパルティータ全曲を自在に組み合わせてのプログラム。プログラムでは「巨大な4楽章作品のように」と紹介されている。もちろんチケットは完売、満席の入り。
ステージのホリゾントやや上手寄りに譜面台、楽譜(演奏曲?)が置かれている。まさか譜面を見ながら演奏するわけもなく、それにしても不自然なところに置かれている。結局最初から最後まで置かれたまま、謎だけが残る。
無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番、「アダージョ」はレガート重視の落ち着いた滑り出し。しかし「フーガ」に入ってびっくり。2小節目の主旋律に重なる対旋律が主旋律をあおると言うか、けしかけるようないささか攻撃的なフレージング。おそらく16分音符であることを強調したかったのだろう。「シチリアーノ」では最初の低音域のフレーズが暗めの響き、続く高音域で重音で示されるフレーズが明るめの響きでコントラストをはっきり付ける。「プレスト」は技巧的なパッセージが続くのだが、圧迫されるような緊張感はなく、余裕さえ感じさせる安定した弾きぶり。
無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第3番、「前奏曲」は明るく快活だが拍子感はしっかり保たれている。こういうバッハを聴くと本当に安心する。鼻歌のように軽やかに歌う「ルール」からアタッカで「ロンド形式のガヴォット」へ。リズム感を保ったままレガート重視のフレージングが心地良い。「メヌエット�記供廚任楼貪召靴謄謄漫璽判纏襪里笋篝舷震面椶癖薫狼い法�「ブーレ」で再び自由で伸びやかな雰囲気に。
無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第1番、どの曲も舞曲本体とその変奏と言うべき「ドゥブル」から成る。遅めの「アルマンド」は動きが細かくなり、速めの「クーラント」はより速くなり、重めの「サラバンド」は軽めになり、アクセントで音楽を進める「ブーレ」はDNAのつながりのように解体される。曲によって本体と「ドゥブル」を続けて弾くこともあれば、間を取ることもある。
無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番、「アルマンド」はレガート重視でよく歌う。「クーラント」では3〜4などに登場する付点のリズムを活用してスムーズな音楽の流れを創る。「サラバンド」では重音の多用で悲劇的で重苦しい空気に。「ジーグ」では一転してテンポが上がるが、細かい音符の連続で劇的な雰囲気は変わらず、少し緊張が高まる。
ここまでで十分堪能したのだが、最後の最後に「シャコンヌ」が来る。控え目な重音から始まり、奇をてらうような表現は全くないが、変奏が複雑になっても音楽の流れに全く淀みがない。気が付いたら132のニ長調になっている。そこからの盛り上がりもあくまで抑制的で、ニ短調に戻る208以降ゆっくり日が沈むように音楽が鎮まってゆく。堂々と響かせる奏者が多い最後の音も、ディミニエンドをかけて、弾き終えた弓をそっとテーブルに置くように終わらせる。
この日使ったのはストラディヴァリウス「トリトン」とのことだが、きらびやかと言うよりしなやかで艶やかな音がする。だから技巧を駆使しても華やかさより内面的な美が際立つ感じになる。父(ボリス)の作曲家としての血も受け継いでいるせいか、音楽の構造が骨格標本を見ているように明らかに示されるのも面白い。
アンコールでパルティータ1番の「クーラント」を弾いた後、次のカーテンコールでは「今日は店仕舞」と言わんばかりに楽器を持たずに現れ、笑わせる。
それにしてもトッパンホールは怖いホールだ。弓と弦との摩擦音だけでなく、弾かない弦に弓がほんのわずか触れても響くし、弾いた後に離した弦の残響まで聴こえてくる。これこそ生身の人間が弾いている何よりの証しなのだが。
![]()