クリスティアン・ツィメルマン ピアノ・リサイタル
〇2023年12月4日(月)19:00〜20:55
〇サントリーホール
〇2階C8列27番(2階6列目中央やや上手寄り)
〇ショパン「夜想曲第2番変ホ長調」Op9の2、「同第5番嬰ヘ長調」Op15の2,「同第16番変ホ長調」Op55の2、「同第18番ホ長調」Op62の2、「ピアノ・ソナタ第2番変ロ短調」Op35(葬送)(約25分、繰り返し全て実施)
ドビュッシー「版画」、シマノフスキ「ポーランドの民謡の主題による変奏曲ロ短調」Op10
+ラフマニノフ「前奏曲ニ長調」Op23の4

平和を願うメッセージ

 ツィメルマンはコロナ禍の2021年にも来日、全国ツアーを行っているが、今回はそれ以来の来日となる。全国10公演が予定され、この日は6回目、東京公演としては2回のうちの初回。9割程度の入り。
 開演前、ピアノの蓋は閉められている。スタッフが楽譜を持って登場、譜面台に置き、蓋を開ける。LA,RAブロック上方の壁の切窓が開けられている。

 まずショパンの夜想曲を4曲。Op9の2はあまりにも有名であまりにも聴き慣れているのだが、そんな聴き手の心を解きほぐすように、肩の力の抜けた、しかし一音たりとも疎かにしない丁寧な演奏。最後の3つの和音を、とりわけ間を取って響かせる。
 Op15の2では11小節目、leggiero(軽く、優美に)と指示された右手の細かいパッセージを文字通り軽やかに聴かせるなど、これまた癒しの音楽。
 Op55の2は、Op9の2と同じ変ホ長調だが、少し複雑な構成。終盤には右手5連符、左手3連符という凝った組合せもあるが、終始音楽の流れが滑らか。最後の和音で左手を先に離し、右手は鍵盤に置いたままで終える。
 Op62の2でも優美な音楽の流れは維持されている。ただ、前半2曲のようなみずみずしさやキラリと輝くフレーズには欠けているかもしれない。

 ここで一旦退場、出てくるとすぐに座り、スコアをめくってソナタへ。
 第1楽章、冒頭の序奏は重々しく、時間をかけて響かせる。第1主題が始まる5小節目以降一転して速くなる。左手のフレーズは最初こそ激しいが、すぐに大人しくなる。右手のメロディは緊張感十分だが、せわしない感じはしない。37〜39の和音連打もしっかり響かせるが威圧的ではない。提示部終盤93以降も同様。
 第2楽章、ブルドーザーの突進のように弾く奏者が多い中、拍子抜けするくらい軽やかに弾き始める。スタッカートを利かせてはいるが、音楽は力みなく流れてゆく。対する変ト長調の中間部もあくまで優美。
 第3楽章、葬送行進曲は淡々と進む。沈んだ雰囲気だが、重苦しさはない。その代わり長調に転じる15以降は華々しい感じはなく、あくまで行進曲の一部という雰囲気。むしろ中間部で慈悲に満ちたハーモニーが展開される。ずっとこのまま聴いていたい、行進曲に戻ってほしくない。
しかし、行進曲に戻ると驚くべき展開が待っていた。77以降最後の変ニ長調の上昇音型を何とpで弾いたのだ。
 第4楽章、無窮動的にうごめく両手の闇の中から、時折希望の光のような、断片的なフレーズが浮き上がる。しかし、だんだん力を失い、終盤73〜74のフレーズのかけらを、かなりテンポを落として弾く。

「版画」の1曲目「塔」、左手から右手への和音の跳躍から始まり、ガムランを思わせるトリル風のフレーズの上を、東洋風の五音音階のメロディが絡んでゆく。
 2曲目「グラナダの夕べ」は、スペイン風のリズムとハーモニー。日が沈んでもまだまだ暑さが残り、気だるい雰囲気。
 3曲目「雨の庭」、無窮動的な16分音符の連続の上にフランス童謡のメロディが絡む。窓の外を眺めながら、雨が上がるのを待つ子供の姿が見える。
 いずれも曲の雰囲気を大事にしつつ、フレーズ自体をぼかすことなくきっちり弾き切っている。

 シマノフスキの変奏曲は22歳のときの作品。物悲しい雰囲気の序奏に続き、ロ短調のポーランド民謡の主題。5度の跳躍がしばしば出てきて耳に残る。
 第1変奏からいきなり技巧的なフレーズのオンパレード。第2変奏は左手の3連符の上を右手の4分音符による和音連打。第3変奏は右手の8分音符のフレーズに左手が終始シンコペーションのリズムで絡む。第4変奏は右手の16分音符による無窮動的な動きを左手の8分音符のフレーズが支える。第5変奏は右手の8分音符2つのフレーズに左手の3連符が絡み合う。
 第6変奏でロ長調となり、ようやく緊張がほぐれてくるが、同じロ長調の第7変奏では再び激しい音楽となる。
 第8変奏はト短調、葬送行進曲。前半聴いたショパンとは一味違う、分厚い和音の連続。シマノフスキの葬儀の際にこの曲がオーケストラで演奏されたそうだ。
 第9変奏は再びロ長調、右手の目まぐるしいフレーズが延々と続いた後、たたあみかけるような下降フレーズが印象的。
 最後の第10変奏はフィナーレも兼ねてよりスケールの大きな音楽。ロ長調の技巧的な音楽から始まり、Mit Humor(ユーモアをもって)と指示された小フーガが挟まれた後、民謡主題は原型をとどめないほど発展し、最後は音の大伽藍となって終わる。
 強弱を問わずどの音も隅々までくっきり鳴らし切る。ツィメルマンのこだわりが詰まった演奏。

 かなり昔に聴いたリサイタルでケージ「4分33秒」を「演奏」したツィメルマンのことだから、アンコールはあまり期待していなかったが、4回目くらいのカーテンコールで腰掛け、スコアをめくる。ニ長調の実に穏やかで優しさに満ちた音楽。最後の和音が鳴り終わると、自ら蓋を閉め、楽譜を持って退場し、お開き。
 隣で聴いていた妻が「まさかラフマニノフとは…」とつぶやく。前奏曲Op23の4だった。
 この選曲の意味を私なりに読み解けば、前半に母国ポーランドのショパンによる葬送行進曲、後半に現在はウクライナ領のティモショフカ出身のシマノフスキによる葬送行進曲を弾き、アンコールでロシアのラフマニノフによる平穏な前奏曲を弾くことによって、ロシアとウクライナ間の戦争を含めた、現在世界で起きている紛争の終結と平和を願うメッセージにしたのではないだろうか。
 1つの曲を自分のレパートリーとするのに10年はかけるという彼のこと、最初からそんな意図で選曲したわけではないにしても、わざわざラフマニノフのあの曲を選んだということは、少なくとも聴衆に「ロシアにもこんな平和な音楽があるのに」と伝えたかったのではないだろうか。

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