下野竜也指揮シティ・フィル
○2021年7月28日(水)19:00〜20:55
○東京オペラシティ・コンサートホール
○3階C2列21番(3階中央ブロック2列目中央やや上手寄り)
○バーバー「弦楽のためのアダージョ」Op11

 同「交響曲第1番ホ短調」Op9
 伊福部昭「ピアノと管弦楽のための協奏風交響曲」(P=小山実稚恵)
 (14-12-10-8-6、下手から1V-2V-Vc-Va、CbはVaの後方)(コンマス=荒井)

作曲家にもみんなで拍手

 縁あって久々にシティ・フィルの定期演奏会に足を運ぶ。ゲテモノ好きを自称する下野が指揮台に立つとあっては、それだけで面白そうだ。この日もバーバーと伊福部昭という同世代(1910年代生まれ)の作曲家を並べるあたり、下野の面目躍如といったところ。半分弱の入り。

 バーバー「弦楽のためのアダージョ」は、彼の作品の中で最も知られるとともに、最も誤解されていると言ってもいい。ケネディ大統領の葬儀に使われて以降葬送の音楽と捉えられがちだが、作曲者自身は否定している。
 下野もそのあたりを意識しているのか、過度な装飾や思い入れを極力排し、スコアに記された音符を忠実に音にしようとしている。Vaがメロディを奏でるところでは温かみを感じるし、後半の息長いクレッシェンドも緊張感こそ高まるが、悲壮感はない。頂点に達した後のGPも短めで、続く低弦の和音も清らかだが暗さはない。「本当はこういう曲なのだ」という確固たるメッセージが伝わる演奏。

 同じくバーバーの交響曲第1番は単一楽章だが4つの部分に分かれ、それらは古典的な交響曲の構成部分に倣って書かれている。
 冒頭の雄大なホ短調の主題はどこかの映画に使われてもおかしくないような雰囲気。EHrとVaによるややせわしないロ短調の第2主題を経て変ロ長調で頂点に達する。
 続くスケルツォに相当する部分はト短調。冒頭の主題が変奏された無窮動的なメロディが弦から様々な楽器に移ってゆき、緊迫した空気が広がってゆく。
 それが静まると緩徐楽章に相当する部分へ。嬰ハ長調。Obの長大なソロが美しい。このメロディが変形しながら他の楽器にも受け継がれてゆき、しだいにオケ全体で大きなうねりを創り上げる。
 続くフィナーレに相当する部分、VcとCbが冒頭の第1主題に基づくフレーズを11回繰り返す上を他の楽器が絡み合いながら全体を盛り上げてゆく。低弦のテーマはTp、Tbへと受け継がれ、壮大な雰囲気の中曲を閉じる。
 この曲もスコアを忠実に音として表現することに徹しているが、うまくまとめようとし過ぎたきらいも。特に終盤で金管がホ長調の主和音を響かせるところ、もっと目立たせてもよかったのではないか。

 前半で早くも指揮者に喝采を送る団員たち。それを遠慮して下野は交響曲のスコアを手に取り、高くかざして作品への拍手を求める。そのときに「アダージョ」のスコアが落ちてしまったので慌てて拾い上げ、2つのスコアを指揮台において改めて2曲に対して拍手し、周囲を笑わせる。

 後半の伊福部「協奏風交響曲」は1941年に作曲され、翌年初演されたが、東京大空襲の際に楽譜が焼失したと見られていた。しかし、1992年にNHKの資料室からパート譜が発見され、蘇演されたといういわく付きの作品。実質的にはピアノ協奏曲だが、作曲者としては交響曲を意図して書いたものだという。
 第1楽章、わざわざヴィヴァーチェ・「メカニコ」という指定がある。Tpが提示する機械的な主題に続き、ピアノが打楽器的に和音を連打しながら進めてゆく。木管による民謡風メロディが提示された後、3拍子の行進曲風な音楽が登場するなど、多彩な表現が次々飛び出してくる。
 第2楽章、ここでもObソロが主題を奏でる。北海道民謡を思わせる、寒々として寂しさのこもった雰囲気が全体を支配する。
 第3楽章、アレグロ・「バルバロ」の指示。アクセントを多用した粗野なフレーズをしつこく繰り返しながら突き進む。ピアノはグリッサンドやトーン・クラスターなども駆使してオケに対抗する。
 20代の作曲ということで荒削りの部分はあるが、他の誰も真似できない伊福部らしさは既に確立されている。プロコフィエフなどの影響を受けたというが、メカニックなフレーズでも決して機械特有の冷たさはなく、機械が生み出す動的なエネルギーの方を活かしているので、民族的な主題と組み合わせても違和感がない。太平洋戦争初期の高揚感も反映されているせいか、作曲者自身が多少背伸びしながらも精一杯のスケール感と躍動感をこの曲に込めたのがよくわかる。
 管楽器やVaにソロパートが多数盛り込まれ、「管弦楽のための協奏曲」的な魅力もある。
 力強さと適度な叙情を兼ね備えた小山のピアノは、このような曲には最適なのかもしれない。第1,3楽章ではオケと真っ向からぶつかり合い、第2楽章では室内楽的な親密さでオケの奏者たちに寄り添う。

 カーテンコールで下野は小山を終始立てていたが、ここでも団員たちが自分へ喝采しようとすると、スコアへの拍手を求める。なかなか演奏機会のない作品を積極的に取り上げる彼ならではのステージマナーとしてすっかり定着しているようだ。これは聴衆としても貴重な機会である。新作初演で作曲者が席にいるときならともかく、普段の演奏会で既に没した作曲家の作品に感激したからといって、作品や作曲家に向けて拍手することはできないからである。
 演奏だけでなく作品や作曲家への敬意を聴衆に意識させる下野のステージマナーがどこまで広がっていくか、にも関心を持っていきたい。

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