東京二期会「フィデリオ」(4回公演の初日)
○2020年9月3日(木)18:30〜21:05
○新国立劇場オペラパレス
○2階4列23番(2階4列目ほぼ中央)
○レオノーレ=土屋優子(S)、フロレスタン=福井敬(T)、ロッコ=妻屋秀和(B)、ドン・ピツァロ=大沼徹(Br)、マルツェリーネ=冨平安希子(S)、ヤッキーノ=松原友(T)、ドン・フェルナンド=黒田博(Br)ほか
〇大植英次指揮東フィル
(8-6-5-4-3)、二期会合唱団、新国立劇場合唱団、藤原歌劇団合唱部
〇深作健太演出

あらゆる壁を乗り越えて

  東京二期会オペラ劇場、新国立劇場、藤原歌劇団は一昨年から三者共同のオペラ公演を実施している。今年はベートーヴェン生誕250年ということもあり「フィデリオ」が企画されたが、奇しくも新型コロナウイルス感染症の影響で世界中のオペラ公演が中止を余儀なくされる中、少なくとも東京では「コロナ後」最初の公演再開という特別な位置付けが加わることになった。
 来場者登録の用紙を記入して提出し、自分で半券を切って箱に入れて入場というパターンにも少し慣れてきた。客席は1席置きになっている。

 舞台には"Albeit Macht Frei"と書かれた、かの有名なアウシュヴィッツ収容所の門が再現されている。ただしFreiの後に大きな?が付いている。開演近くになると時計の秒針の音が聞こえ、それがフェードアウトしたところでオケのチューニング。
 下手手前にナチの制服を着たピツァロが登場、ナチ風の歩き方でゆっくり舞台最前を行き来する。指揮者が登場し、ためらいがちの拍手。収まるとピツァロの"Albeit!"の命令で演奏が始まる。
 いつもの「フィデリオ」序曲でなく「レオノーレ」序曲3番を採用。舞台上では収容所の中で苦役を強いられるユダヤ人たち。何とか耐えていたが、とうとう中の1人がピツァロに殴りかかる。ピツァロがピストルを出して撃とうとする。
 そこでファンファーレの箇所となり、中央から手すりのない大階段に乗ってレオノーレが登場。降りてきて2人の間に割って入り、男(おそらくフロレスタン)を守ろうとする。2度目のファンファーレが鳴ると天井から古着が降ってくる。紗幕にはドラクロワ「民衆を導く自由の神」が映し出される。
 暗転になり、ドイツ降伏を知らせる新聞を持って喜ぶ人々の写真。次の場面では舞台中央にレオノーレが1人立ち、後方に古着の山。マルツェリーネらしき女性が上手から登場。下手からはソ連兵が2人現れ、マルツェリーネを襲おうとするが、レオノーレに阻まれる。

 第1幕第1場は第二次世界大戦が終結した1945年、疎開していた人々が帰郷に向かう場面から始まる。マルツェリーネとヤッキーノは舞台両端に立って二重唱。奥の回り舞台の荷車がクラクションを鳴らしてヤッキーノの恋路を邪魔する。
 マルツェリーネのアリアの間に時代はベルリンの壁建設後の1961年へ飛ぶ。手前はロッコのオフィス。上手奥にロッコの机、中央に長テーブル、下手にソファ、その奥に扉。オフィスの奥にベルリンの壁が見える。
 上手からスーツ姿のレオノーレ(フィデリオ)が登場。四重唱、ロッコのアリア、三重唱と続くが、その間にレオノーレがテーブル下に仕込まれていた盗聴器を見つけ、線を引きちぎってテーブルの上に置く。

 そのまま第2場の行進曲が始まると状況がより明らかになる。制服姿のピツァロの部下2人、続いてピツァロが登場。ピツァロのアリアの間に部下たちは部屋の中を荒らし回る。彼らは旧東独の秘密警察、シュタージに属していて、ロッコが管理するのはその収容所ということらしい。
 続くレオノーレのアリアは、壁のさらに後方に立って歌われる。その間にロッコのオフィスは取り払われる。舞台は壁だけに。
 囚人の合唱は舞台裏から。紗幕にベルリンの壁の前で行われたケネディ大統領の演説のシーン、さらに時代が飛んで1989年壁を壊す人々の映像などが流れる。舞台には壁の前にフロレスタンらしき囚人が1人登場、レオノーレが下手から近付こうとし、2人は互いに手を伸ばすが届かない。やがてフロレスタンは下手へ消える。その後壁の前でドイツ国旗や"Wir sind ein Volk"(我々は一つの民族だ)と書かれたプラカードを持つ男が現れる。
 ロッコが上手から現れてレオノーレに地下牢へ降りる許可が得られたことを知らせる。続いてマルツェリーネが上手から登場、ピツァロが激怒していることを知らせる。程なくピツァロたちもやってくるが、ロッコは「王の命名日」(1989年に?)を理由に囚人を屋外へ出したと主張。ピツァロは地下牢への手引を念押しして退場。"Albeit Macht Frei"の看板が地面まで降りてくる。

 第2幕第1場はさらに時代が進み、2001年の同時多発テロ事件からアフガン・イラク戦争へ。舞台には下手奥から上手手前に斜めに伸びる、ベルリンよりもさらに高い壁。イスラエルがパレスチナ自治区と隔てるために作った防護壁という設定。
 手前には"Albeit Macht Frei"の看板が下手から上手に向けて傾いた状態で置かれ、多くの文字は抜け落ちている。
 下手奥からフロレスタンがさまよい歩いてきて、看板の手前でアリアを歌うが、力尽きて上手手前端にくずおれる。
 壁が中央から開き、その間に出てきた階段からロッコとレオノーレが降りてくる。下手の古井戸を掘るロッコに対し、レオノーレはほとんど手伝わずフロレスタンの顔を何とか見ようと懐中電灯を当てたり、あちこちに移動して覗こうとする。フロレスタンは外れ落ちてしまった文字を看板に1つずつ戻し始める。レオノーレは水とパンを看板越しに与える。
 いよいよピツァロが降りてきて、フロレスタンを刺そうとすると、2人の間にレオノーレが立ちはだかる。紗幕にドラクロワの絵が再び映される。ファンファーレが鳴り、やむなくピツァロは退場。
 レオノーレは落ちていたF(=フィデリオ、フロレスタンでもある)の字を抱きしめ、看板にはめる。すると"Freiheit"(自由)になる。
 喜びの二重唱、歌っている間2人は両端に立っているが、歌い終わると舞台中央でついに抱き合う(舞台上の歌手たちが「密着」したのはこの場面のみ)。しかし、その直後にフロレスタンは倒れる。

 第2場、さらに時は移って2020年、第二次世界大戦終結75周年記念式典という設定。正面横に広がる壁が真ん中から開いて、奥から手すりなしの大階段がせり出してくる。そのてっぺんにドン・フェルナンド。スーツにコート姿。トランプっぽくはないがどこかの国の大統領という出で立ち。ただ、立居振舞にどこか独裁者っぽさが残る。
 居並ぶ登場人物たちも男は全てタキシード姿。マルツェリーネは白、レオノーレは赤のワンピース。レオノーレは車椅子に乗ったフロレスタンを押して上手から登場。
 フェルナンドはレオノーレに「鎖を解いてあげなさい」と話しかけながらメダルを渡そうとするが、レオノーレは手を挙げて辞退。フロレスタンは立ち上がり、一同舞台前面に並ぶ。
 壁が完全に取り払われると舞台最奥まで見える。その壁に沿うようにタキシード姿の男声と白ブラウス、黒スカート姿の女声が並ぶ。みなマスクをしているが、歌う直前に取り外す。
 フィナーレの合唱が終わると紗幕も上がってゆき、レオノーレはその前に進み出る。

 演出の深作健太は「仁義なき戦い」シリーズなどで名を馳せた映画監督深作欣二の息子。父の監督作品である「バトル・ロワイアル」の脚本等を担当し、父の死後は続編の監督を務めた他、舞台作品の演出も手がける。
 時代は変われどいつの時代にも人と人を隔てる壁があり、その壁をめぐるドラマが繰り返される。つまりいつの時代にもフロレスタンがいて、レオノーレがいて、ピツァロやロッコがいる。これまで並外れた勇気と強い意志でたびたび壁は壊されてきたが、いまだに新たな壁が建設される。しかも最後の最後に最も厄介な見えない壁が現れた。それが紗幕に象徴される「コロナの壁」ということか。しかし、それだってさらに並外れた勇気と強い意志を振るえば克服は不可能ではない。合唱団員たちがマスクを外し、レオノーレが最後に進み出た意味はそこにある。
 舞台に込めたメッセージとしてはわかりやすいが、各場面の時代背景を解説するための様々な政治家や作家の言葉(その中にはシラーの「歓喜に寄す」も含まれ、途中で"Freude"が"Freiheit"に置き換えられる)や解説文が紗幕に投影されるのは、邪魔でしかない。映画の中でならまだしも、音楽に集中しているときに文字情報を目で追わねばならないのは甚だ無粋である。

 中島はうまくはまったときの高音の伸びなど素晴らしいものを持っているが、全体的には荒削りの歌いぶり。福井は終始力任せでない力強い声が響きわたり、圧倒的な存在感。妻屋も安定した響きで、コミカルな面と影のヒーロー的な面を併せ持つロッコにぴったり。
 以上の3人に比べると大沼はいかにも小悪人という感じで、声の支配力に乏しい。冨平も可憐な歌声だが、オペラパレスは器として大き過ぎる。松原は役柄によく合った声質で好演。黒田もいつもながら安心して聴いていられる。

 当初予定されていたエッティンガーに代わって起用された大植指揮の東フィルだが、全体的に平板な演奏。強調したいフレーズでテンポを落とすのはわかるが、速いテンポの部分でも全くと言っていいほど音楽が前に進まず、躍動感が出てこない。第1幕の行進曲などもっと丁寧に弾かせてほしいし、歌手たちとのバランスも一部乱れるところがあった。
 オケピットでは弦楽器奏者が少ない分奏者間の間隔はそれなりに取れていた。東京二期会は来年「タンホイザー」を予定しているが、ワーグナーなどの後期ロマン派のオペラでどこまで弦楽器を増やせるか。
 3団体合同の合唱はほとんど舞台裏で歌うやりにくさがあったかもしれないが、「囚人の合唱」のテンポに付いていけないなど、こちらも精彩を欠いた。しかし、フィナーレはさすがに充実した響き。

 何はともあれ、オペラ公演が再開できたことは素直に嬉しい。これからも試行錯誤は続くが、ぜひ「新しい日常」における新しいオペラ公演の形式を追求し続けてほしい。

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