東京シンフォニエッタ第47回定期演奏会
○7月9日(木)19:00〜20:20
○東京文化会館小ホール
○T51番(最後方から4列目、ほぼ中央)
○エリック・モンタルベッティ「愉快に生きるための地上の広大なる空間〜アンサンブルのための」
 同「5つのフォルマント〜クラリネットのための」(日本初演)
 同「都市へと開ける同時的な窓〜ソニア&ロベール・ドローネーを称えるための」より第1,3,5楽章(日本初演)

変わらないことの意味

  東京シンフォニエッタの存在は以前から知っていたが、恥ずかしながら生で聴くのは初めてである。きっかけになったのは、読売新聞の夕刊で板倉康明音楽監督のインタビュー記事を偶然見かけたことである。コロナ禍の下で音楽活動を続ける覚悟が示されていて、再開される演奏会をあれこれ探していた私にとっては願ってもない情報だった。正にコロナウイルスがつないだ縁と言えるだろう。東京文化会館にとっても「コロナ後」初の公演となる。
 入口では例によって手を消毒し、チケットは自分で半券を切って箱に入れるのだが、その前に今回は氏名と連絡先の記入を求められた。閉館中に作ったのか、客席には1席ごとに「この席には座らないで下さい」と印刷されたカバーが掛けられている。座れる席の8割程度の入りか。普段のこの団体の演奏会の入りと比べてどうなのだろうか、気になる。

 今回取り上げられたのはフランスのエリック・モンタルベッティ。日本でもまだ知名度は低いが、ヨーロッパでは多くの委嘱を受けている売れっ子らしい。私にとってはもちろん未知の作曲家である。
「愉快に生きるための地上の広大なる空間」は2015年に東京シンフォニエッタによって初演されている。管楽器による不安定な和音に始まり、彼らとほぼ同数の弦楽器による通奏低音風の和音が加わる。双方がさほど対立することなく、むしろ手を取り合って進んでいき、最後は弦の響きが遠くへ消えていく。

「5つのフォルマント(Formant)」はクラリネット・ソロのための作品。Formantとは楽器に固有の部分音の数やその周波数帯、あるいは言語学で母音などの音声を特徴付ける特定の周波数領域のことらしい。
 3人の奏者(佐藤和歌子、西澤春代、川越あさみ)がステージ手前の中央と両端に分かれ、下手の奏者が1曲目と3曲目、上手の奏者が2曲目と4曲目、中央の奏者が5曲目を演奏。
 おそらく曲風の違いに合わせて奏者の分担を決めたのだろう。1曲目と3曲目は細かいフレーズをつなぎ合わせていく動きの多い作品で、作曲者自身もこの2曲を関連付けて紹介している。これに対して2曲目と4曲目は持続音中心。ただ、音程の高低の幅は極限まで広がっていて、天井から引っ張り上げられそうになったり、乱気流に遭ったりすることも。
 5曲目は先の4曲と全く異なり、無窮動的な激しい音楽と息を潜めるような静かな音楽が交互に現れる。特に静かな部分は重音が多用される。演奏時間も他の4曲より長い。ただどの曲もクラリネットの音色によく合っている。

「都市へと開ける同時的な窓」は、20世紀前半に抽象絵画の先駆者として活躍したソニア&ロベール・ドローネー夫妻からインスピレーションを得たそうだ。タイトルはロベールが描いた連作から取られている。
 本来は4または5楽章で演奏されるよう作られたものだが、元々先に世界初演を予定していたスイスの楽団が、コロナウイルスの影響で演奏会の予定が11月に延びてしまった。彼らは東京シンフォニエッタが代わりに全曲を世界初演するのを認めず、双方協議の結果、妥協策として1,3,5楽章のみ初演することになったそうだ。
 第1楽章は「サン=セヴラン、虹」と題されている。パリのサン・セヴラン教会はドローネー夫妻だけでなくモンタルベッティ夫妻にとってもなじみの深いところだそうだ。マリンバや木琴などの打楽器による激しい動きに弦と管によるコラール風の上昇フレーズが繰り返し重ねられてゆく。3人の打楽器奏者は複数の楽器を担当していて忙しい。1人の奏者がマリンバ→グロッケンシュピール→銅鑼と続けて演奏したかと思えば、曲が進む中で同じ楽器を別の奏者が演奏することもある。
 第3楽章は「終わりのないリズム」。描いたのはロベールだがソニアが命名。半円ごとに色分けされた大小の同心円が左下から右上方向の直線上に並べられている。3拍子の単純なリズムによるフレーズが各パートに受け渡されながら延々と続いていく。
 第5楽章は「色彩の円環、生きる喜び」。文字通り様々な色の同心円が画面全体に散りばめられている。打楽器が口火を切り、そこへ弦や管が響きを重ね合わせることで音楽が発展してゆく。第1楽章に輪をかけて打楽器奏者たちが忙しい。最後は銅鑼の1発で終わる。
 聴いた限りでは各楽器の奏法はほとんど従来のもので、音階も12音音階のようだが、音の絡み合いの中から精妙な響きが伝わってくる。
 権利関係が難しいかもしれないが、できればタイトルとなった作品の画像あるいはネット上で観られるサイトの紹介があればよかった。

 終演後板倉監督がマイクを持って今回の演奏会開催に至った経緯や「都市へと開ける同時的な窓」の部分初演の事情などを説明。「おとなしい性格なので」と話して客席から笑い声がもれると「なんでそこで笑いが起きるのかわかりませんが」とさらに笑いを誘う。
 演奏者たちの中でマスクをしていたのはコントラバスの吉田秀だけ。演奏ぶりを見る限り管楽器奏者もコロナ以前と変わらないような感じ。しかし、この日の演奏会を迎えるまでの、見た目にはわからない奏者たちの苦悩ぶり、そして無事演奏を終えたことによる安堵感が板倉の話から伝わってくる。
 最後は板倉監督から「記念になるので」ということで、写真撮影の許可が出る。舞台上に残った奏者たちと客の様子を、私を含め多くの人たちがカメラに収める。

 白状すると、実はこの日の演奏会へ行くことにした理由の一つに「コロナ後に現代音楽を聴いたら、聴き方が変わるかもしれない」という下心もあった。残念ながら現代音楽への理解が進んだわけでもなければ、聴覚が鋭くなったわけでもない。しかし、現代音楽への拒否感が強まったわけでもない。要は私にとって現代音楽へのイメージは変わらなかったわけだが、変わらなかったことを確認できたことに一つの意味があるのだろうと思う。

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