長島剛子・梅本実リートデュオ・リサイタル
○2018年10月31日(水)19:00〜20:50
○東京文化会館小ホール
○S列32番(後方から5列目中央)
○リゲティ「夏」、ヒンデミット「断章」、プフィッツナー「許しを求めて」Op29の1、フォルトナー「沈みゆくがよい、美しき太陽よ」、ブリテン「6つのヘルダーリン断章」Op61より「故郷」「ソクラテスとアルキビアデス」「若き日々」「人生の半ば」、ウルマン「沈む太陽」「夕べの幻想」
 デートレフ・ミュラー=ジーメンス「遠望」、リーム「ヘルダーリンの詩による3つの歌曲」(「許しを求めて」「人生の半ば」「ツィンマーに」)、「歌曲集」Op1より「人生の半ば」、ロイター「ヘルダーリンの詩による3つの歌曲Op67(「沈む太陽」「夜」(「パンと葡萄酒」より)「人生行路」)
+信長貴富「鬼ごっこ」「夕焼け」

ヘルダーリンの苦悩を白日の下に

 ソプラノの長島剛子さんとピアノの梅本実さんは、昨年新しいシリーズとして「ロマン派から20世紀へ」と題し、シューマン「女の愛と生涯」などを披露して新境地を開いたが、今年は再び「世紀末から20世紀へ」シリーズに戻り、ヘルダーリンの詩による歌曲を集めたリサイタルの第2弾に挑む。第1弾は3年前に行われたが、長島さんはヘルダーリンに相当深い関心を寄せていて、このリサイタルのために彼のゆかりの地を訪ね、そこで撮った写真をプログラムに使用するという念の入れよう。7割程度の入り。

 この日歌われた曲は全て春に発売されたCD収録のもの。

 リゲティはピアノのDの1音から始まる。詩はヘルダーリン最晩年のもの。ゆったりした下降音型が多く、ドイツらしいからっとした夏と言うよりかなり蒸し暑い雰囲気。
 ヒンデミットは彼らしいごつごつしたメロディが印象的。最後の5度の和音がヘルダーリンだけでなくヒンデミット自身の絶望感を映し出す。
 プフィッツナーでは、詩人が自分の行為を振り返る前半はまだ落ち着いているが、間奏で和音が変化すると許しを請う後半で音楽が高ぶってゆく。
 フォルトナーは素朴なメロディで愛が満たされぬやるせなさを表現。
 ブリテン、前半2曲は乾いたハーモニーで望郷の念や美男子として有名な古代ギリシャの政治家、アルキビアデスへの憧れを歌う。「若き日々」では一転して陽気なメロディとリズムになるが、「人生の半ば」は終始暗い雰囲気。
 ウルマンは1944年アウシュヴィッツで殺害されたユダヤ人作曲家。どちらも暗鬱な曲想だが、「夕べの幻想」の終盤はR.シュトラウス「4つの最後の歌」の4曲目「夕映えの中で」のそれに驚くほど似ている。

 ミュラー=ジーメンスは今年で61歳になる現存の作曲家。詩はヘルダーリンが最後に書いたもの。ピアノが高音部でしばらく和音を鳴らした後低音部に移る、といったことを繰り返し、その間を縫うように歌が入る。終盤ではピアノが最低音のAを連打するのに対し、ソプラノが高音を長く伸ばして対抗。歌い終わった後は右手を上げてピアニストに指揮するように腕を振る。この曲のみ歌手の前に譜面台。
 リームも今年66歳になる。同じ詩(「人生の半ば」)で2曲書いているが、かなり曲想が違う。「3つの歌曲」の2曲目は比較的落ち着いているが、作品1の方は詩の一部を語らせ、和音もより攻撃的な響き。
 ロイターの作品、「夜」ではニ長調の平易な3拍子の伴奏が印象的。その一方で「人生行路」では困難な道を生き抜く意思を力強く歌い上げ、どこかホッとさせられる。

 世紀末だけでなく今世紀に活躍する作曲家たちをも魅了するヘルダーリン。思い通りにならない人生を嘆き、怒り、絶望し、最後は諦めの境地へ。その一筋縄では行かぬ心の風景を、長島さんの伸びやかで輝きある声が白日の下にさらす。梅本さんのピアノの透徹した音と隙のないフレージングで、詩人の苦悩はさらに容赦ないまでに明らかにされ、聴く者はもはや目を背けることができない。

「知らない曲ばかりでは」というわけで、これまた最近お気に入りという信長貴富の歌を2曲。現代の合唱界を席巻する信長の歌をソロで聴くと、まず彼の書くメロディの親しみやすさを再認識する。しかし、さらに驚いたのは、梅本さんのピアノ。別の楽器かと思うくらい柔らかいタッチに変わり、長島さんの声を優しく包み込むようにリードする。合唱コンクールでしばしば聞かされるような杓子定規な拍子感やリズム感は微塵もないのに、歌に寄り添い、歌を引き立てる。最後は救われた気分に。

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