大野和士指揮都響
○2018年4月10日(火)19:00〜20:50
○サントリーホール
○2階RA5列13番(2階ステージ上手側ブロック5列目)
マーラー「交響詩第3番ニ短調」(約94分)
 (16-14-12-10-8、下手から1V-Va-Vc-2V、CbはVcと2Vの後方)(コンマス=矢部達哉)
MS=リリ・パーシキヴィ、新国立劇場合唱団(38)、東京少年少女合唱隊(28)

命のエネルギーと慈愛が渾然一体に

 4月の都響の定期は、2年ぶりにマーラー。10曲の交響曲の中で最も長い3番を取り上げる。ほぼ満席の入り。
 
 弦は対抗配置、Hrも通常2列に並べるところを3列に。前から2人+補助1人、2人、4人。これだけでも大野のこだわりが伝わってくる。
 第1楽章、その9人のHrによるユニゾンは堂々としているが、威圧的ではない。序奏が収まり、第1主題へつなげる23〜26小節の大太鼓のリズムがやや不明瞭。32の消音器付Tpによる上昇アルペジオも鋭いが、切り裂くような感じではない。132以降のFlのフレーズでは夏よりも春の訪れを感じさせる。166以降のTbソロも暖かみのある響き。247以降Cbから始まる息長い行進曲も、夏の行進と言うより、地面からツクシやタンポポが生え、土の中から蛙やリスが次々と起き出してきて飛び跳ねながらこちらに向かってくる感じ。行進の頂点から嵐へ一変する362ではフレーズを切らずにそのままなだれ込む。
 全体的にテンポは速めだが、特に終盤の863以降で一段とテンポアップし、一気に駆け抜ける。矢部の切れのあるソロがアンサンブルを引き締める。

 ここでソリストと合唱団入場。2列の東京少年少女合唱隊は席が足らず、両端4人は階段に座る。新国合唱団の最後列は通路のパイプ椅子に座る。

 第2楽章、メロディを奏でるObソロが流麗。19以降1Vと2Vでメロディがリレーされるが、対抗配置だとよくわかる。上品で優美な雰囲気で進んでゆく。
 第3楽章、今度は田舎風のメロディになるが、Clソロはスタッカートをあまり強調せずレガート重視。だんだん盛り上がっていくが、頂点から一気に下降してゆく174〜175は賑やかだががさつではない。256以降などで挿入されるポストホルンは、私の席からは見えなかったが、Pブロック通路の下手側の扉の奥あたりから吹いているように聞こえた。
 ここでハプニング。この楽章後半で、座っていたシンバル奏者がうずくまるようになり、隣の奏者に何度か肩を揺り動かされる。気が付いて元の姿勢に戻ったが、左胸あたりに手を当てて「大丈夫」という仕草をしていた。軽い発作だったのだろうか?その後の演奏に問題はなく、聴いている方もホッとする。

 第4楽章、パーシィキヴィはフィンランド出身、大野とはモネ劇場「トリスタンとイゾルデ」でブランゲーネを歌っている。その一方で母国の国立歌劇場の芸術監督も務めている。大柄で手振りを交えながらかなりドラマチックな歌いぶり。
 第5楽章、前の楽章の音が消えるやすかさず少年少女たちが立ち上がって歌い始め、続いて新国合唱団も出番の直前に立ち上がる。fで歌い始め、12以降pで"Daβ Petrus sei von Sunden frei."(ペテロの罪は晴れたよ)と歌うところ、レガートにする場合が多いが、楽譜通りアクセントを強調。

 第6楽章、合唱はまだ立っている。9以降でメロディがVcに受け渡されたところでゆっくり座るよう指示。両翼のVが奏で始めたメロディがVc→1V(12以降)→1V+Vc(20以降)→さらに2VとVaが絡む(24以降)といった具合に豊かなハーモニーへ発展していくだけで涙が出てきた。弦が大地のぬくもりと草木の芽生えを表現すると、続く木管がそよ風を吹かせ(41以降)、やがてHrが嵐を吹かせる(74以降)。それが収まると、再びVc(91以降)→Va(96以降)→1V(99以降)へメロディがつなげられてゆく。
 Hrのそよ風を受けて弦が濃密に歌ってゆく132以降、楽譜では転調手前の148でpoco rit.をかけるが、その手前の144あたりからブレーキをかける。
 全体的にテンポは速いが上滑りにならず、弦のフレーズには生命力が徐々にみなぎるようになり、弦と対立していた管も、251以降のTpソロから歩み寄ってくる。最後は文字通り管弦による大きな響き、うねりとなり、力強さを保ったまま終わる。ずっと涙が止まらず。

 指揮者が手を下ろすまで沈黙。聴衆にブラヴォー。

 第1楽章は当初「夏が行進してやってくる」と題されていたが、暑さよりもこの季節にふさわしい暖かい響きで貫かれていた。季節をも超越した自然賛歌に聴こえる。そして当初「愛が私に語ること」と題されていた終楽章は、ドクドクと血が流れるのを感じるような命のエネルギーとそれを優しく包み込もうとする慈愛あふれる響きが渾然一体となっていた。
 この曲を速く振る指揮者の演奏は表面的な美しさに終わりがちだし、遅く振る指揮者の演奏はしばしば躍動感に欠ける。生き生きとした推進力を保ちながら深みのある美しい響きを保てるのは、大野にしかできない技と言えるだろう。

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