「メリリー・ウィー・ロール・アロング〜それでも僕らは前へ進む〜」(20回公演の17回目)
○2013年11月15日(金)19:00〜21:20
○銀河劇場(天王洲)
○2階B列14番(2階中央2列目中央やや下手寄り)
○チャーリー=小池徹平、フランク=柿澤勇人、メアリー=ラフルアー宮澤エマ、ベス=高橋愛、ガッシー=ICONIQ、ジョー他=広瀬友祐他
○演出・振付:宮本亜門、翻訳:常田景子、訳詩・音楽監督助手:中條純子、音楽監督:佐孝康夫他

問題作の3つの問題

 11月1日の初日公演を観て以降改めて初演版などのCDを聴き直し、もう一度観ることにする。この日も9割程度の入り。

 当たり前と言われればそれまでだが歌は格段に良くなっていた。小池の"Franklin Shepard, Inc."の歌詞も8割方聴き取れたし、宮澤の声の存在感も増していた。ただ、年齢を重ねてからのしゃがれ声と若い時の純粋な声との差はもっと付けられるはず。また、カンパニーのメンバーたちが入れ替わり立ち替わり歌う場面転換の音楽も、誰かが少し音程を狂わせるだけでこれまでの流れが台無しになってしまう。最後の"Our Time"での小池と柿澤の二重唱も、上を歌う柿澤の声が途切れ途切れになってせっかくの和音が鳴り切らない。ソンドハイムの音楽の怖いところである。出演者全体に共通する問題は、早口で歌う部分で歌詞が流れて聴こえてしまうことである。もっと子音を強調して一音一音を立たせなければならない。
 また、細かい点だが、"Franklin Shepard, Inc."でチャーリーが詩を書く仕草を示す音をオリジナルのタイプライターを叩く音でなく、チェンバロ風のキーボードの音でフランクのメロディをなぞるように演奏されていた。後でタイプライターの音が出てくる場面もあるのに、なぜそのように変えたのか、疑問が残る。

 さて、その上で今回のプロダクションでより深刻な問題に気が付いた。第1にカット、第2に翻訳・訳詩、第3に作品そのものである。
 第1の問題だが、そもそも全体を休憩なしで2時間強に収める必然性があったのか?序曲から最初の"Merrily We Roll Along"、そして1976年のパーティの場面に至るまでが圧縮されて続けて演奏されているし、各ナンバーも少しずつカットされている。知らずに聴けばそういうものかと思うだろうが、オリジナルを聴いているとここからさらに盛り上がるのに、と思われるところで終わってしまうのは物足りない。
 最大の難点は1962年ガッシー邸でフランクたちが"Good Thing Going"を披露する場面。本来なら1度通しで歌って客たちから絶賛され、2度目を歌ううちに客たちが茶々を入れ、次の場面転換のナンバーにつながるはずなのだが、1度目に多少邪魔が入るものの最後まで聴くと絶賛される。そして2度目を歌わずすぐ場面転換のナンバーになることで、この場面の持つ意味合いが表面的なものになってしまう。本来ならフランクとチャーリーは単にチャンスをつかんだだけでなく、ほどなくショービジネスの厳しさにも直面することが暗示されるはずなのである。

 第2に翻訳・訳詩の問題。1976年フランク邸でのパーティの場面、ゲストの1人が「何やってるの?」と尋ね、メアリーが「飲んでるの」と答える。ゲストが「仕事を聞いているんだよ」と尋ねるとメアリーは「飲むのが仕事なの」と答える。もちろんわかりやすい。しかし、原文は"What do you do?""I drink.""What do you really do?""I drink."というやりとりである。この原文のニュアンスを何とか残せないものか。セリフなら歌詞よりやりやすいはずである。
 また、1973年NBCでのインタビューの場面、楽屋でメアリーがチャーリーに、フランクと仲直りするよう説得するが、チャーリーは「僕らは別々なんだ」と答える。原文は"One and one and one."
 最後の場面、"Our Time"の最後は原文では"You and me."を8回繰り返して締める。しかし、今回の公演では様々な違う言葉を入れている。作詞作曲を1人で行うソンドハイムのミュージカルでは、歌詞と音楽の一体感が並みのミュージカルと比べものにならないほど強い。この魅力を翻訳・訳詩で失わないでほしいと思うのは、私だけだろうか?

 第3に、改作を重ねたとは言え、やはり作品そのものに内在する問題には根深いものがあるように思えてならない。それは、ストーリーと音楽との関係である。ソンドハイムは初演キャストによるCDのライナーノートの中で、通常なら主題が拡大、発展、反復、断片化されていく過程が逆順に示される、といった趣旨のことを書いている。確かに最後の曲"Our Time"の主題は最初の1976年の場面で断片的に登場し、その後も先に拡大、発展、反復される音楽からだんだん元の主題へと近付いていく。そこだけ追っていると、ショービジネスの世界でもみくちゃにされた主題からだんだん余計なものが洗い流され、失われたものが回復され、本来の姿へと戻っていく。最後のナンバーが感動的なのは、元々の主題が美しいからだけでなく、そのようなプロセスを経てやっとたどり着いた姿を耳にすることができる喜びも加味されているからである。
 しかし、話はそう単純ではない。"Old friends"は最初にベスのソロで示され、その後フランクとチャーリーも加わった三重唱で歌われる。元々3人の友情を象徴するナンバーであり、ソロで歌われることでその友情が崩壊したことを示す。"Not a day goes by"は最初にベスがソロで歌い、1960年ダウンタウンクラブの場面でフランクとベス、そこにメアリーが加わる形で歌われる。これも元々フランクとベスの絆を示すナンバーであり、ソロで歌われることでその絆が切れてしまったことを示す。通常のミュージカルのようにストーリーの時間軸と音楽の拡大、発展等が一致しているナンバーもある。
 時代が遡ることで音楽が単純化していくパターンと発展していくパターンの2つが混在していることが、この作品を難解なものにした大きな要因であり、この点は現在に至るまで残っているのである。

 にもかかわらず今日まで改作を重ねながら上演が続く最大の原因は、やはり何と言ってもソンドハイムの書いた音楽が素晴らしいからである。関係者、特に俳優たちにとっては作中のナンバーを埋もれせたくない、いつかどこかで歌いたいという気持ちが強いのだろう。
 その意味では、ヴェルディのオペラ「トロヴァトーレ」に似たミュージカルと言えるかもしれない。

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