新国立劇場「鹿鳴館」(4回公演の3回目)
○2010年6月26日(土)14:00〜17:20
○新国立劇場中劇場
○1階20列33番(1階最後列から2列目中央やや下手寄り)
○影山伯爵=黒田博、影山公爵夫人朝子=大倉由紀枝、大徳寺公爵夫人孝子=永田直美、顕子=幸田浩子、清原=大島幾雄、久雄=経種廉彦、草乃=永井和子他
○沼尻竜典指揮東響
(11-8-6-4-3)、新国合唱団(12-12)
○鵜山仁演出


新しい魔性のヒロインの誕生

 三島由紀夫の名作「鹿鳴館」を池辺晋一郎がオペラ化する。元々これは若杉弘芸術監督時代の最後を飾る企画のはずだった。しかし、昨年7月若杉監督はその初演を観ることなく息を引き取った。このため、本公演は図らずも彼の追悼公演の意味合いをも持つことになった。そのような事情が影響したのか、それとも作曲者の人気か、三島の人気か、理由はともかく4回公演のチケットの売れ行きは好調で、特に土日公演は早々と売り切れただけでなく、オークションでも高値で取引された。今までの邦人オペラ公演では考えられなかったことである。もちろんほぼ満席の入り。

 序曲は分散和音風フレーズのワルツで始まる。西洋音楽を日本で演奏するぎこちなさが伝わってくる。舞台の外枠は白い唐草模様の帯で囲まれている。
 第1幕、幕が上がると中央に浮き上がって少し傾いた円形舞台を下の黒子たちが床下の柱を押して回している。円形舞台には手すりの他階段が2つ付けられ、椅子が2脚置かれている。大徳寺公爵夫人ら4人の夫人がストップモーションで立つ。円形舞台は両脇から舞台外枠と同じ模様の巨大な額縁に挟まれている。額縁と円形舞台の間には黄色い大輪の菊があちこちに咲いており、庭のようになっている。
 夫人たち4人が動き始めると舞台裏から軍隊の行進曲風音楽が聴こえる。聞き覚えのある音楽だと思ったら、1997年のNHKドラマ「夜会の果て」のエンディングに出てくる音楽で、もちろん池辺の作曲。黒田清隆夫妻が主人公で鹿鳴館の舞踏会の場面もあるので、流用したということらしい。後で調べたら黒田清隆は江守徹、夫人滝子は黒木瞳。それはほとんど覚えてないが、なべおさみの伊藤博文に違和感を感じたのはよく覚えている。それはともかく、生きている作曲家が新しい作品を正に生み出しているという実感がわいてくる。
 4人の洋装の夫人が舞台手前へ降りてくると、下手手前から和服の朝子と草乃が登場。草乃が夫人のうち2人を送った後、上手手前で朝子は孝子と顕子の相談に乗る。顕子が久雄との出会いを歌いながら上手手前へ移動すると、円形舞台で男女5人の道化が2人の観た曲馬の様子を見せる。孝子たちの願いを入れて上手へ送り出した後、下手手前から書生姿の久雄が登場。階段の途中まで昇って朝子に話しかけるが、彼女が自分の母であることを知ると降りてくる。彼が朝子の夫影山でなく父の清原を殺そうとしているのを知って朝子は驚くが、何とか思いとどまらせようとする。彼女の歌の合い間にしばしば号砲が挿入される。上手手前で向き合う2人を舞台後方から徐々に近付く黒尽くめの男女の群れが引き離し、舞台前面に並んで「宿命と憎しみ」と題された不気味なヴォカリーズを歌う。そのメロディをオケも間奏曲として引き継ぎ、切れ目なしに第2幕へ。
 第2幕、冒頭のワルツが再現。円形舞台の上に朝子と草乃が立つ。門番からの合図に草乃が白布を振って答えると、下手後方から清原が昇ってくる。草乃が退場した後2人は昔の愛を確かめ合う。朝子の言葉に清原がヴォカリーズで答える二重唱。朝子の背後に近付く清原に彼女は頭を寄せる。彼女の髪の黒さを称える清原に対し、朝子は彼の方を向いて跪く。彼も跪いて抱き合う。2人は円形舞台から降り、舞台手前で朝子は夜会襲撃中止を求め、清原も同意。愛の話は上の舞台、政治の話は下の舞台で展開される。朝子は中央手前の菊を一輪取って清原の胸に差す。
 下手手前から草乃が影山伯爵の帰宅を知らせる。彼女は清原に付き添って上手端から逃がした後、朝子と共に円形舞台の奥へ回る。下手奥から手前に影山と飛田が歩いてくる。2人が上手端へ移動すると、朝子と草乃は上手の円形舞台下から話を盗み聞きする。朝子たちが一旦下手に下がり、影山が「菊の美しさは不平不満の裏返し」といったソロを歌う間、洋装の貴族たちや和装の庭師たちなどが円形舞台を囲むように現れる。朝子が下手手前から現れて影山に話しかけると、人々も退場。彼が飛田を去らせると、朝子は円形舞台に昇って和装のままダンスしながら夜会に出ると言い、壮士を立ち入らせないと共に久雄の身柄を自分に預けるよう影山に頼む。彼は同意。しかし、朝子が退場した後彼は下手に残っていた草乃の腕をつかみ、後ろから抱き寄せる。黒尽くめの男女の群れが円形舞台下に集まり、そこから出てきて2人をどこへともなく連れて行き、「宿命と憎しみ」のヴォカリーズが響く。

 第3幕、両脇の額縁付の壁(大理石風)が回る中、奥から円形舞台がせり出てくる。手すりはそのままだが椅子は1脚、階段も1つ。その奥にシャンデリアが低く吊り下げられている。前半にあった菊は全て撤去。上手側の壁が夕日で赤く染まっている。円形舞台上に久雄と顕子。久雄はタキシード、顕子は白と黒が組み合わさったイブニングドレス。後に登場する夫人たちの衣裳が朝子も含めて黒一色であるのに対して、顕子の純真さを際立たせる。2人の愛の二重唱は歌詞の上であまりかみ合わないのに合わせ、音楽上も2人の歌がかぶさりながら進み、甘いハーモニーとはならない。途中で道化たちのパントマイム。上手手前から洋装の朝子と孝子が登場。召使たちが菊の鉢植えを舞台前面や階段下に並べる。舞台手前に舞踏会の演奏者たちが数人現れ、朝子は久雄と顕子に選曲の打合せを頼む。一同上手へ退場。
 奥から影山と草乃が円形舞台に昇ってくる。影山に迫られた草乃が、久雄が朝子の子であることを知らせると、ショックでよろめく。舞台裏から奏者たちの練習が何度か断片的に挿入される。奥から朝子、続いて写真屋たちが昇ってくると影山は朝子と写真に納まるが、2人とカメラの間には椅子がある。写真屋たちと朝子が退場すると、影山も手前へ降りてきて、草乃と飛田に朝子の裏をかく指示を出す。草乃は「自分はまだ美しい?」と聞き、「十分美しい」と答えて近付く影山を振り払って走り去る。
 影山は再び円形舞台に昇ると上手手前から久雄と顕子が登場。影山は久雄を挑発し、ピストルを差し出す。彼は顕子が止めるのも聞かず受け取る。2人が下手に退場した後、シャンデリアは吊り上げられ、円形舞台は奥に下がる。その手前にスペースに影山夫妻と客たちが集まる。ワインで乾杯するが朝子はグラスを落とす。グラスの素材のせいか床のせいか、残念ながらガラスのような音がせず。
 夜会の音楽が続く中第4幕へ。円形舞台の椅子は取り払われ、道化たちが踊る。男はひょっとこ、女はおかめの面を被った客たちがそれを取り囲み、和洋ごちゃまぜの振付で踊る。来賓たちの到着が告げられるたび、彼らは猿のような仕草で応える。前の場面で「日本人の洋装は西洋人からは猿のように見える」という趣旨の歌があるので、それを受けての演出だろう。途中から人々は面を顔の横にずらして踊りを続ける。
 人々が洋装の朝子を見ようと上手から退場する間、舞台両脇の花道に影山と飛田が登場。2人は客席に降りて舞台を見上げる。円形舞台に朝子、孝子、顕子、久雄が集まる。壮士たちの襲撃が伝えられると久雄は走り出していなくなる。朝子は手すり越しに壮士たちに止めるよう説得。何とか収まるが、久雄がいないので朝子たちは下に降りる。影山は上手端に上がって客席に背を向けて立つ。飛田は1階客席奥へ退場。
 2発の銃声の後下手端に立つ孝子と顕子の後ろを横切って清原登場。久雄の死を告げると顕子は立っていられなくなる。朝子は彼の胸から菊の花を取り上げ、地面に叩きつけ、踏みつけてから返す。これに対し清原は真相を話して下手へ退場。朝子に慰められた顕子と孝子も下手へ退場。
 朝子の非難に影山は嫉妬ゆえの策略だったと告白。朝子は影山に暇を告げるが、彼が冷徹な政治家に戻ると「それでこそ私の殿様」と応じる。「夜会の果て」のエンディングがワルツ風に編曲されて流れる中、2人は円形舞台に昇り、その中央で踊り始める。しかし2人ともほとんど手を使わず、ステップだけでゆっくり動いているだけ。それを囲む客たちは大騒ぎしながら踊りを続ける。銃声が聞こえると客たちは円形舞台の周囲を囲む。影山と朝子は踊りを止めるが影山が「打ち上げそこねたお祝いの花火だ」と言うと、2人は客席に背を向け、付かず離れずの距離で並んでゆっくり後方へ歩いていく。客たちは再び踊り始めるがワルツは銅鑼の一撃で中断され、Gのユニゾンが長々と響くうちに幕。

 大倉はベテランらしく練れた歌と演技の中にも女の芯の強さと怖さを感じさせる。永田はしばしばヴィブラートのきつい場面があったが、全体的には安定した歌いぶり。幸田は瑞々しい中にも芯のしっかりした声で悲劇のヒロインを好演。永井も女中頭の屈折した心理を巧みに表現。この日の女声陣の歌を聴いていると、やっぱり「キャンディード」の女優たちの声が単調に感じられてしまう。
 黒田さんは冷酷非道の影山を持ち前の陰のある声で十二分に表現。その一方で朝子に嫉妬を告白する場面では愛に飢えた男の本音をさらけ出す。いつもながら立ち姿がかっこよく、舞台上どこにいても絵になる。ホワイエで売っていた舞台写真を思わず買ってしまった。大島も時折響きが薄くなる場面はあったが、気品のある声で憂国の志士と弱い父親を見事に表現。経種も明るい声で安定した歌いぶり。
 沼尻指揮のオケは鳴らし過ぎて声を消してしまう場面がしばしばあったが、弦の暗い響きが悲劇を予感させたし、必要以上に明るい金管が欧化政策の日本の虚飾性をよく表現していた。

 池辺の音楽は極端な十二音風ではなく、大河ドラマのテーマ音楽を思わせる場面もしばしば。歌の部分はあまり音程を動かさず語りに近い歌わせ方をする場合が多く、愛を語る場面でも親しみやすいメロディは少ない。三島の書いたセリフ一つ一つに西洋化する日本人に対する痛烈な皮肉と批判が込められていることを思えば、このやり方は効果的と言える。ただ、鵜山が上演用の台本を担当しており、細かい部分ではかなり改変を加えているようだ。字幕と実際に歌われる歌詞との間の違いが目立ったのはそのためだろう。
 それでもなお、朝子という女は男を惹きつける何かを持っている。清原との純粋な愛だけでなく、影山との打算の結婚生活もおそらく捨てないことがわかるからである。彼女が心の中で両者を共存させることができるのは人生経験の故か。それともこれこそが女の魔性というものなのか?
 カーテンコールではホリゾントに故若杉監督の写真が映され、出演者たちはそれに向かって拍手。彼の遺志に池辺は渾身の作品で応えたと言っていい。
 初演されては忘れ去られる邦人オペラが相次ぐ中、この作品は十分再演に耐えうると思う。朝子とはどんな女なのか、男ならもう一度観て見極めたいと思うからだ。新国での再演はもちろん、地方や海外の劇場でも上演されるよう、関係者の今後の働きかけに期待したい。

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