長島剛子(S)・梅本実(P)リート・デュオ・リサイタル 世紀末から20世紀へPartVIII
○2009年10月22日(木) 19:00〜20:40
○津田ホール
○M列24番(13列目上手端)
○ヒンデミット「ピアノ伴奏による歌曲」Op18(「酔った踊り子」「私は聖フランシスコのように宙を飛ぶ」「夢」「わたしの耳は階段の上で」「お前の前で私は目覚めた」「お前は私を悲しませるな」「夕暮れの園を通って」「トランペット」)
 ヨゼフ・マルクス「ノクターン」「妖精」「風車」「伊達男」
 ウェーベルン「4つの歌」Op12(「日が去って」「神秘の笛」「太陽が見えたとき」「似たものどうし」)
 ヒンデミット「マリアの生涯」Op27より「1.マリアの誕生」「5.ヨセフの猜疑」「7.キリスト降誕」「8.エジプトへの逃亡の途次の憩い」「10.受難のまえ」「15.マリアの死についてIII」
+アルマ・マーラー「あなたの傍らでは心おきなく」、R.シュトラウス「セレナード」Op17の2、ブラームス「子守歌」Op49の4

聖母が降りてきて歌姫に変身

 毎年10月恒例、世紀末から20世紀にかけてのドイツの作曲家によるリートを取り上げる長島さんと梅本さんのデュオ・リサイタル。2年ぶりに足を運ぶ。7割程度の入り。今回はヨゼフ・マルクスとウェーベルンをヒンデミットで挟むという、いつもながらユニークなプログラム。

 それにしてもいきなりヒンデミットで始めるとは、歌う方も弾く方もさぞ大変だろう。「酔った踊り子」では、千鳥足のようなピアノの伴奏に跳躍の多いヒンデミット特有のメロディ。それにフォルテの高音もある。しかし、2人とも1曲目からエンジン全開で、聴衆を圧倒。
 「私は聖フランシスコのように宙を飛ぶ」では、海の上をぴょんぴょん飛んで歩いているようなピアノの付点のリズムが耳に残る。ただ歌う方もフォルテでBまで出さねばならず、やはり楽ではない。
 「夢」は一転して静かでゆっくりした曲だが、不協和音が不気味な雰囲気を創り上げる。「わたしの耳は階段の上で」は、手紙を待ちかねる女性の心情を歌ったものだが、詩の印象とは異なり、軽快で喜劇的な雰囲気すらある。待っているのを楽しんでいるように聴こえる。
 「お前の前で私は目覚めた」では、終盤で「まるでショパンのワルツのように(wie nach einer Chopin Valse)」という歌詞が出てくる。するとピアノからもショパンのワルツ風のフレーズが顔を出す。「お前は私を悲しませるな」は、一転して重苦しい和音が続く。
 「夕暮れの園を通って」は無窮動的なピアノの上で燃え上がるような声が恋人を求め続ける。「トランペット」の場面は墓地。ピアノの4音の分散和音(H−E−G−Eなど)がトランペットを表すようだが、終始弱音で提示される。それは死んだ兵士たちが吹いているのだろうか?終始暗い歌いぶりで、最後はト音記号で五線譜の下のAsで終わる。

 ヨゼフ・マルクス(1882〜1964)は、ウィーンで活躍した作曲家で、自らの作風を「ロマンティック・リアリズム」と称した。教育者、批評家としても知られているそうだ。
 「ノクターン」は、ショパン風のアルペジオが縦横に駆け巡る中を、ヒンデミットとは対照的な伸び伸びとしたメロディで歌い上げていく。少し落ち着いた中間部から最初の主題に戻るのだが、戻るまでのピアノの間奏がなぜかずいぶん長い。
 「妖精」でも歌、ピアノともにせわしなく駆け回る。ピアノ後奏では空のかなたへ消え去るような和音の後、一番低いAs一音で終わる。1時の鐘を表すそうだ。
 「風車」では、規則正しい分散和音が風車の回転を表す。しかし、曲が進むに連れて回転が優しくなったり激しくなったりする。そして、夜と死の予感を歌ううちに曲風も影を帯びてくる。
 「伊達男」は月光の下で身支度するピエロの様子を陽気な舞踊音楽で表す。

 ウェーベルン「4つの歌曲」はいわゆる「自由な無調」時代の作品。
 「日が去って」は音の断片をつなげた、いかにもウェーベルンらしい雰囲気だが、強弱の起伏は少ない。「神秘の笛」は李太白の詩のドイツ語訳に曲を付けたもの。ピアノのトリルが笛の音(鳥の声)を表すようだ。
 「太陽が見えたとき」では、太陽の陰に隠れるもの(神)の意志を感じてショックを受けているかのような、高音の連続が印象的。「似たものどうし」は花とみつばちの助け合い関係を描いたゲーテの詩に曲を付けたものだが、「小粒でぴりりと辛い」山椒のような鋭い響き。
 
 最後は、マリアの生涯を描いたリルケの死を基にヒンデミットが創作した15曲の歌曲集から6曲を抜粋。
 「マリアの誕生」は物語調だが、ピアノ伴奏は4度や5度の和音進行が目立つ。「ヨセフの猜疑」は、マリアの懐妊に気付いたヨセフの猜疑、怒りを描く。いらつくようなリズムや不協和音が印象的。
 「キリストの降誕」では、TVドラマの始まりを告げるような荘重な和音が鳴り響く。「エジプトへの逃亡の途次の憩い」も物語調だが、逃亡を思わせる速く激しい音楽も出てくる。「受難のまえ」はマリアが神と対話する静かだが神秘的な響きに支配される。「マリアの死についてIII」は荘重な和音が繰り返し鳴らされる中を無機的なメロディが歌われていくが、最後はハ長調の主和音が明るく鳴らされ、救済を連想させる。

 アンコールのうちアルマ・マーラーの曲はリルケの詩によるもの。夫とは対照的に平易なメロディ。R.シュトラウスの「セレナーデ」、重い空気を振り払うかのように、「チャラララン」のフレーズを軽快に奏でる。「マリアの誕生」を歌い終わった時には聖母がステージに降臨したような雰囲気になったが、アンコールに入った途端、聖母は歌姫に変身。最後のブラームスで癒される。
 それにしても、これだけの難曲をまとめて一晩で披露するとはすばらしい。長島さんのいつもの引き締まった声が、ヒンデミットでは暗めの響きを加え、聴く者を圧迫せずにはおかない。しかし、マルクスやアンコールのシュトラウスでは一転して明るい響きに転じるので、受難から解放されたようなさわやかな気分に。
 いつもながら梅本さんのピアノも充実。特にヒンデミットでは終始歌をリードし、盛り上げ、時には鎮めるなど、実に雄弁。今回も聴き応え十分。