「サンデー・イン・ザ・パーク・ウィズ・ジョージ」(42回公演の40回目)
○2009年8月8日(土)14:00〜16:45
○パルコ劇場
○M列6番(最後方から2列目下手端から6席目)
○ジョージ=石丸幹二、ドット/マリー=戸田恵子、老婦人/ブレアー・ダニエルズ=諏訪マリー、看護婦/ハリエット・ボーリング=花山佳子、ジュール/ボブ・グリーンバーグ=山路和弘、イヴォンヌ/ネイオミ・アイゼン=春風ひとみ、フランツ/デニス=畠中洋、フリーダ/ベティ=堂ノ脇恭子、ルイ/ビリー・ウェブスター=中西勝之、ボート屋/チャールズ・レイモンド=野仲イサオ、店員1/ウェイトレス=冨平安希子、店員2/イレイン=鈴木蘭々他
○吉住典洋/平田英夫指揮(V,Va,Vc,P,キーボード、管楽器、Hp1)
○宮本亜門演出


気の抜けたハイボール 

 ソンドハイム・ファンとしては、せっかくのプロダクションを1回しか観ないのはもったいない。幸い千秋楽前日のマチネのチケットを入手。奇しくも前回観た公演のちょうど1ヵ月後となった。いろいろ疑問点もあったので、それらを可能な限りチェックしながら観ることもできた。9割以上の入り。

 まず演出上気付いた点を前回批評の補足・訂正を中心にまとめておく。
 第1幕、ジョージとのやり取りに続くドットのソロの途中でジョージはストップモーションとなり、彼女が彼の魅力を語り始める。キャンバスが少し彼から離れ、彼女はそれを見ながら「一番好きなのは彼の絵なの」と歌う。
 ジョージのアトリエの場面、上手の壁からスライドしてきた「グランド・ジャット」をジョージが描き続けるところでは、彼がちょうど描いている箇所とその周辺だけ明るく照らされるが、前回観たようにたくさんの点の光が絵の中で輝くような場面はなかった。赤い下着姿のドットで下手手前の鏡台で化粧しながら、自分がもう少し女として魅力的だったら、と歌い出す。すると下手からシルクハットに燕尾服姿の男3人が花を持って現れ、中央に移動した彼女を囲んで誘惑。彼女は彼らを適当にあしらって鏡台に戻る。フォリーズに行く約束を破られたドットは怒って上手へ退場。しばらく絵を描き続けていたジョージは舞台手前に出てくるが、彼女がいないのを知ると後を追う(台本上はそのまま作業を続けることになっている)。
 公園の場面、ジョージは上手のベンチに座って文法の本で勉強しているドットに声をかけるが、シュークリームを作ってきたルイにさえぎられる。ルイとドットが退場した後ジョージは上手手前のスクリーンに映し出された犬を相手にスケッチを始めるが、ここでのソロは大幅にカット。
 続くドットのソロ"Everybody Loves Louis"だが、「ルイはベッドで自分をこねてくれる」とジョージに訴えかける歌詞などが省略。途中で公演を行き交う人々が全て退場し、上手手前に立つドットがその対角線上にしゃがみ彼女に背を向けてスケッチしているジョージに向かって歌いかける。ソロの最後で彼女はルイからもらったパンを口に入れたまま彼を称えて退場(台本上はパンを投げ捨てて退場することになっている)。
 終盤、公園で人々が争い、騒ぎ出すところで冒頭のアルペジオが鳴ると舞台手前にいる老婦人とジョージ以外は動きを止める。その後の老婦人のセリフ"Remember, George."をなぜか「ジョージ、描きたいことを描くのよ」と訳している。舞台上で「グランド・ジャット」の絵の通り人々を配置していく場面、前回「なぜか猿と犬が出てこない」と書いたが、それだけでなく老婦人と看護婦の脇にあるはずの木も降りてこない。ビデオ化されている初演時のラパイン演出では、もちろん木が降りてくるが、より大事なことはそれを見た老婦人が微笑むことである。つまり、ジョージは一旦絵の中から排除した木を戻すことで母の想いに応えているのである。

 第2幕、冒頭の合唱"It's Hot Up Here"でラパイン演出は後奏で数秒人物たちを動かしてから元の位置に戻すが、ここでは途中から不平を言う人物たちが徐々に体を動かす。
 1984年、サウスカロライナの美術館の場。機械を修理している間館長が客席前方に現れ、「今日は朝から暑いですねえ」などとアドリブで場を持たせている。
 レセプションの場面、テキサスの美術館長に紹介されたジョージは下手の壁に映し出された自分に向かってシャンペンを注ぐ。
 現代のグランド・ジャット島の場では、ジョージとドットの二重唱"Move On"の後絵の人物たちが彼を取り囲むように現れ、彼に向かって一礼する。これはオリジナルのラパイン演出と同じだが、何度観ても感動的な光景である。

 石丸は前回に比べて声も伸びていたし、コミカルな箇所も含め歌、セリフともども表現の幅がはるかに広がり、主役にふさわしい存在感を示していてホッとした。戸田は第1幕前半のおきゃんなドットから、得られないとわかっていてもジョージに求め続け苦悩する後半のドットへの変貌振りが前回よりさらに大きなスケールと深みで迫ってきた。前回同様もう一息声量がほしい場面があったが、ないものねだりと言うべきだろう。前回ややしゃがれがちだった諏訪の声もしっかり響いていたし、全体的な声のアンサンブルも前回よりはるかに整っていて、安心して聴けた。

 それだけに「オケ」の弱さが前回以上に気になった。ただこの責任を奏者たちに帰すのは筋違いである。経費の問題だろうが、元々フル・オーケストラにふさわしい内容の音楽を最低限のメンバーで演奏するよう改変した編曲担当の方々(亀岡夏海、萩森英明、泉まりこ)の責任は大きい。プログラムにはV,Va,Vc,P,キーボード、管楽器(リード)の奏者の名前が2名、ハープ奏者が1名記されているが、カーテンコールで舞台に映し出された演奏風景を見る限りでは、オケもどうやら「ダブル・キャスト」、つまり実際に演奏するのは各楽器1名ずつなのである(ひょっとしたら管だけは常時2名かもしれない)。このために、どうしてもピアノやキーボードに頼った演奏になり、声を支え守り立てるには限界がある。
 例えば各幕最後を飾る合唱を取ってみても、オリジナルでは"Sunday"のモチーフであるH−Gの音型を最初に提示するのがObで、2度目以降はHrが力強く響かせる。それがこのプロダクションでは(少なくとも最後のモチーフは)Clで演奏しており、聴いた印象がかなり違ってくる。また、ジョージと店員2人が歌う"On the green/Orange violet mass"のフレーズに弦の上昇音階が応えるところなど、ゾクゾクするような聴きどころがカットされている。これではソンドハイムの音楽の魅力の半分も伝わらない。
 しかし、この作品の本来持つ魅力を日本の観客に伝える上で最も問題があったのは、前回指摘した演出と、編集を含めた翻訳(常田景子)・訳詞(中條純子)だろう。演出については、第1幕幕切れで猿や犬だけでなくジョージの母にとってかけがえのない存在である木まで舞台に出さないというのは、やはり納得がいかない。翻訳・訳詞についても先に述べたようなカットのために、登場人物たちの性格が薄っぺらいものとなってしまった。特に第1幕冒頭から第2幕冒頭に至るドットの心情変化の微妙な部分が削り取られているのは、もったいないとしか言いようがない。

 というわけで、全体的には少々日本酒が混ざり、氷が少なめで、気の抜けた炭酸水で割ったハイボールみたいになってしまった。でも、また挑戦してほしい。ソンドハイムの魅力はまだまだ日本で知られてないのだから、とにかく上演し続けること自体に意義があるということだけは改めて強調しておきたい。

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