ヴァレリー・アファナシエフ(P)
○2009年6月18日(木) 19:00〜20:50
○東京オペラシティ・コンサートホール
○3階R1列52番(3階上手側バルコニー1列目奥側)
○ドビュッシー「前奏曲集第1集」より第6番「雪の上の足跡」、プロコフィエフ「風刺」Op17より第2曲「間のびしたアレグロ」、ショスタコーヴィチ「24の前奏曲」Op34より第14番変ホ短調、プロコフィエフ「風刺」Op17より第1曲「嵐のように」、ドビュッシー「前奏曲集第1集」より第10番「沈める寺」
ムソルグスキー 音楽劇「展覧会の絵」(約70分)

セリフと演技は必要ですか? 

 「鬼才」の名をほしいままにしてきたアファナシエフが2年ぶりに来日。7割程度の入り。ピアノの前に丸いガラスのテーブル、ワインやウォッカの瓶が置いてある。その上手側に肘掛け椅子。さらに手前に黒いコートが横に広げて置いてある。

 前半は「ムソルグスキーへのオマージュ」と題され、「展覧会の絵」のミニチュアのように、ショスタコーヴィチを真ん中に置いたシンメトリーのプログラム。なぜ「展覧会の絵」がシンメトリーかと言えば、プログラムの解説によると、「プロムナード」を除くと「卵の殻をつけた雛の踊り」を中心に「ポーランドの生活」「フランスの生活」「歴史」「物語」にちなんだ曲が対になって配置されているからだそうだ。
 アファナシエフは黒のジャケット、シャツ、ズボン姿で登場。首を少し傾けるだけで席に着くのはいつもの通り。
 「雪の上の足跡」はやや遅めのテンポ。冒頭のフレーズを聴いただけでタイトルの風景が目に浮かぶ。「間のびしたアレグロ」は5連符の音型がしつこく繰り返される。ショスタコーヴィチの前奏曲はひたすら暗い。トンネルの中を明かりなしで進むような感じ。「嵐のように」はかみ合った歯車が激しく回るような感じ。「沈める寺」はぐんとテンポを落とし、通常堂々と鳴らすはずの28小節目以降もほとんど盛り上がらない。それでいて最初から最後まで静謐と言っていい雰囲気が保たれている。1音1音は決して大きな音ではないのに、響きが減衰しないような錯覚に陥る。

 後半の音楽劇「展覧会の絵」は94年第10回「東京の夏」音楽祭で上演されたものの改訂版。アファナシエフ自身の台本による。例によって軽くお辞儀すると肘掛け椅子に座り、ワインをグラスに注ぎ、色と匂いを確かめて一口。次にウォッカを開け、小さなグラスに入れ、鼻をつまみながら一気に飲み干す。ため息を付いた後立ち上がり、床に置いてあるコートを取り上げて羽織り、ムソルグスキーの孤独な生涯について語る。コートを脱いで椅子に置き、ようやく演奏が始まる。
 「プロムナード」はやや遅めで、流麗な演奏。続く「グノーム(小人)」でまた極端にテンポを落とす。まるで小人の身体を顕微鏡で拡大して隅から隅まで観察しているみたい。
 その後フランス人とロシア人の酒の飲み方の違いを語り(フランス人はプロセス、ロシア人は結果を重視)、「古城」へ。少しだけ速めのテンポで、湖畔に静かにたたずむ白の風景を連想させる。セリフと演技を入れた後「チュイルリーの庭」。かなり遅いテンポでアクセントやスタッカートをほとんどかけない。終わるや間髪入れず「ブイドロ」へ。最初からffで鳴らし、だんだん小さくしていく。
 その後も1,2曲弾いてはピアノと椅子との間を行き来しながら語る。「こんな遅い演奏聴いたことないだろう?」「ヴァレリー・アファナシエフの演奏さ」といった感じで茶化してみたり、名作ほど時代の変化に応じて変化するものだと諭したり。やがて話題は民主主義の芸術への悪影響、グローバリズムで画一化される文化への危機感(マクドナルドや映画「タイタニック」が引き合いに出される)に及ぶが、最後は芸術の不滅を守る意思を力強く表明し、「バーバ・ヤーガの小屋」へ。ここでも遅めのテンポがグロテスクな雰囲気作りに効果的に作用。続く「キエフの大門」は奇をてらわない堂々とした響き。演奏が終わると再び椅子に座り、ウォッカを2杯あおる。ため息をついたところで暗転。

 「ムソルグスキーとの対話」という設定のようだが、語る内容は彼の自画像のようなものも多い。難しい理屈を並べてはいるが、自分は結局ウォッカを飲んで酔いつぶれるような男なんですよ、といった調子でもう一人の自分が冷めた目で見つめる自分を聴衆に見せているような感じ。ただ、あれだけ個性豊かな演奏を聴かせてくれれば、自分という人間像を聴衆に伝えるには十分ではないのか?さらにセリフや演技が必要なのだろうか?どうしてもそんな疑問が残ってしまう。
 花束嬢1名。前列で両腕を広げて大きく拍手する人も。毎回何か変わったことをしてくれるピアニストである。だからまた行きたくなる。

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