新国立劇場「蝶々夫人」(5回公演の4回目)
○2009年1月21日(水)19:00〜21:55
○新国立劇場オペラパレス
○4階4列45番(4階中央最後列上手側)
○蝶々夫人=カリーネ・ババジャニアン、ピンカートン=マッシミリアーノ・ピサピア、シャープレス=アレス・イェニス、スズキ=大林智子、ゴロー=松浦健、ボンゾ=島村武男、ケイト=山下牧子、ヤマドリ=工藤博他
○カルロ・モンタナーロ指揮東響
(14-12-10-8-6)、新国合唱団
○栗山民也演出


オケが悲劇を盛り上げる
 
  栗山民也演出の「蝶々夫人」は2004〜05年のシーズンに初演され、今回が2度目の再演となる。新国を代表するレパートリーとして定着しつつあるようだが、これまでなかなか日程が合わず、やっと観ることができた。9割以上の入り。

 第1幕、紗幕が上がると中央から下手側を回って降りてくる螺旋状の階段。最上部分の踊り場の奥に星条旗が掲げてあるらしいが、4階席からは見えない。階段の下に蝶々さんとピンカートンの新居。家は抽象的な造りで屋根はなく、手前の居間は白い長方形の床と廊下の2段、最も上手側の角に柱。奥は障子で仕切られ、その奥の部屋には中央に柱が3本並ぶ。奥の部屋は一応控えの間のようだが、床全体が少し上手側を向いているため、客席からも少しだけ中の様子が見える。地面には落ち葉があちこちにたまっているが、貼り付けられているようで、落ち葉の上を人が通っても引きずられない。
 ゴローに先導されて白い軍服姿のピンカートンが下りてくる。ゴローに紹介されたスズキは、ピンカートンからのチップをしっかり受け取る。ピンカートンは土足のまま床に上がるので、ゴローはあわてて靴の跡を手ぬぐいで拭き、ついそのまま自分の顔の汗も拭いてしまう。シャープレスは家の上手奥から延びる坂を上ってくる。さすがにここは台本どおり。白無垢姿の蝶々さんは上から、女たちは上と下から分かれて登場。蝶々さんがピンカートンに持参の品を見せる間、2人の上から長方形状にスポットライトが当たり、それ以外の舞台は暗めに。客たちは三々五々集まってストップモーションで2人を遠巻きに囲む。結婚式は居間の上で木の箱状の椅子にピンカートンと蝶々さんが座り、その奥に神官と公証人。蝶々さんも草履をはいたまま床に上がっている。式が終わると西洋式に誓いのキスでもしようと思ったのか、ピンカートンは蝶々さんの方を向くが彼女は後ろにいる女たちの方へ向かう。再び居間に戻ってピンカートンと手を取り合い、客たちが祝福の合唱を歌っていると、階段の上からボンゾの声。彼は階段の途中まで降りてきて蝶々さんを非難。客たちも上下に分かれて逃げ去ってゆく。全員が去った後蝶々さんの母親だけが踊り場に戻りかけるが、女に連れて行かれてしまう。
 中央手前でうずくまる蝶々さんを立たせたピンカートン、今度こそ抱こうとするが奥の部屋のスズキの祈りに邪魔される。蝶々さんが着替えのため奥に下がる間、ピンカートンは煙草を一服。白無垢の上衣と、さすがに草履も脱いで蝶々さんが出てくる。彼女の方からピンカートンの手にキスするあたりからようやく2人は仲むつまじくなり、再び2人の上から長方形状のスポットライト。二重唱を歌い終わると彼女が彼の両手を持って後ろに下がりながら奥の間へ連れてゆく。

 第2幕、地面には落ち葉の代わりに赤やピンクの花びらが散っているが、あちこちに吹きだまりができており、その一部は家の中にも積もっている。居間の上手側奥にIKEAで売ってそうな白い横長の背の低い戸棚、その上に十字架が立っている。蝶々夫人は紫の着物姿、足の部分に桜の枝の模様。階段の途中で向こう側を向いて立っている。「ある晴れた日に」は庭から居間にかけて積もった花びらの山の中に座って歌い、「(ピンカートンが)帰ってきた」のところで両手で花びらをパッとまく。
 シャープレスとゴローは坂下から登場。ヤマドリは坂の途中の壁が開いて人力車で登場。夫人の子どもも坂下から駆け上がってくる。アメリカ国旗模様の服を着た人形を持っている。シャープレスが去った後、スズキが竹箒を持ってゴローを追いかける。ゴローは階段途中まで逃げた後、ケツをまくって退場。リンカーン号到着の大砲が鳴ると、夫人たちは庭の花びらを居間の床の上に敷き詰めるようにまく。そして夫人は奥へ下がって白無垢姿に着替えて居間に戻り、戸棚の上のコップに刺してあった赤い花を髪に挿し、スズキや子どもを連れて障子の奥に下がってピンカートンの帰りを待つ。
 舞台全体が暗くなり、ハミング・コーラスが始まると3人のシルエットが障子に映る。座っているスズキと子どもはやがて寝てしまうが、夫人だけは障子の脇から出てきて階段を上り、踊り場で星条旗を眺めるようにして待つ。
 間奏曲が始まると紗幕が下りる。朝の音楽になると踊り場あたりから明るくなり、鳥の声も挿入される。

 第3幕、子守唄を歌いながら階段を下りてきた蝶々夫人は寝てしまった子どもをスズキから受け取って障子の奥へ退場。シャープレスとピンカートンが降りてくる。ピンカートンは紺の軍服。遅れて日傘を差したケイトがゆっくり降りてくる。スズキとケイトが話をつけるため家と階段の間の狭いスペースを通って奥へ退場した後、ピンカートン「さようなら、愛の家よ」を歌い、階段を駆け上がって退場。
 スズキとケイトが戻り、夫人がスズキを呼ぶ声がするとシャープレスはケイトを上手へ退場させる。居間に現れた夫人はケイトの姿を見つけるが、客席からケイトが見えるのはそのしばらく後。30分後に戻ってほしいと言われたシャープレスとケイトは坂下へ退場。夫人は棚の上の十字架を倒し、短刀を取り出す。居間の中央で鞘を抜いたところで坂下から子どもが駆け上がってくる。夫人は短刀を廊下にむき出しのまま置いて子どもを抱き、「かわいい坊や」を歌う。スズキに呼ばれて子どもは短刀や鞘の脇を通って障子の奥へ退場。夫人は庭に下り、家の方を向いて短刀をのどに突き刺す。彼女に正方形状のスポットライトが当たる。その姿勢のまましばらく動かないが、子どもが障子を開けて母の死に様を見てしまう。最後の不協和音で夫人は倒れる。

 通常蝶々夫人の家は丘のてっぺんにあるという設定だが、さらに上があるという舞台は珍しい。同じ栗山でもオペラ・ファンにはおなじみの栗山昌良演出に代表されるような、蝶々夫人の家とその周辺で物語が収斂するアプローチを嫌い、より空間的な広がりを引き出そうとしたのだろうか?
 話はそれるが、オバマ新大統領就任式の翌日というタイミングでこのオペラを観ていると、第1幕のピンカートンとシャープレスとのやり取りが共和党と民主党の論争のように聞こえるなど、あれこれ余計なことを考えてしまう。

 ババジャニアンはアルメニア出身、軽めだがドラマチックな声で、第1幕終盤のハイCこそわずかに低かったが、第2幕以降の長丁場は安定した歌いぶり。弱音をもう少しうまく使えば言うことなし。日本風の所作も無難にこなす。ピサピアはイタリア出身、明るく軽い声がよく通る。特に第1幕ではピンカートンの傲慢さがよく出ていた。イェニスはスロヴァキア出身、遠くから見るとパックンに似ている。甘く優しい声で役柄にぴったし。大林はストレートで清潔な声で、第2幕以降はスズキの誠実さをうまく表現していた。松浦のゴロー、島村のボンゾといった経験豊富な脇役たちが舞台を盛り上げる。
 モンタナーロ指揮東響は冒頭からただならぬ雰囲気、悲劇の予感を醸し出す響きで聴く者を揺さぶる。歌手の声を邪魔しないよう細心の注意を払いながらも、熱のこもった響きと雄弁なフレージングでドラマをどんどん盛り上げる。例えば第1幕で蝶々さんがピンカートンに改宗したことをこっそり打ち明けるシーンの切迫した響き。早くもホロリと来た。第2幕では「ある晴れた日に」の後奏をかなり遅く弾かせる(聴衆も音が止むまでよく待ったと思う)。またアメリカ国歌のメロディである「ドミソドー」の上昇音階を力強くはっきり聴かせ、坂を駆け上がってくる子どもが単にピンカートンと蝶々夫人の結婚の証というだけでなく、彼の帰還に対する揺るぎない信念の根拠になっていることを聴衆に強調。そこから夫人の勝利の歌まで泣かされっぱなしだったが、これに続くオケはただフォルテで鳴らすのでなく、優しく夫人を包み込む。第3幕でもピンカートン、シャープレス、スズキの三重唱を支えるオケは、絶望と後悔に満ちた苦い響き。そして夫人がいよいよ自害を決意する場面で出てくるティンパニの連打は運命の足音か、夫人の心臓の鼓動のような響きで聴く者の胸を締め付ける。カーテンコールでは珍しく、指揮者がホールでの演奏会のようにオケの各パートを両手で示しながら健闘を称えていたが、本公演の最大の功労者と言っていいだろう。

 一つだけ疑問。終演後のカーテンコールで脇役陣で登場したのはケイトとゴローのみ。第2幕のみに登場する役はゴローとヤマドリだが、なぜヤマドリは出てこないのか?また、第1幕の後は紗幕が下りてカーテンコールがない。すなわち第1幕だけに登場するボンゾなどにカーテンコールの機会がないのは気の毒ではないか?新国の公演では休憩前にカーテンコールをやらない代わりに、最後には出演歌手全員が登場するというのが通常のパターンだと思っていたが、今回はどうしてこうなったんだろう?

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