堀米ゆず子(V)+アブデル・ラーマン・エル=バシャ(P)
○2008年10月25日(土) 18:00〜19:45
○フィリアホール(横浜市青葉区青葉台)
○2階2列22番(2階正面最後列上手側)
○ベートーヴェン「ヴァイオリン・ソナタ第4番イ短調」Op23
 同「同第5番ヘ長調」Op24(春)
 同「同第10番ト長調」Op96
 (繰り返し全て実施)
+同「春」より第3楽章

癒しと慰めのベートーヴェン
 
 最初に断っておくが、僕は昔から日本人であろうと外国人であろうと、男女を問わず、眉間にしわを寄せ首に青筋を立て全身をのた打ち回らせながら弾くヴァイオリニストが苦手である。これに対し堀米さんは、エリーザベト王妃国際音楽コンクール優勝からしばらくの頃だったか、NHKFMで演奏を聴いた瞬間、それとは全く正反対のタイプだと直感。その後テレビで演奏姿を拝見し、その直感に間違いのなかったことを確認、いっぺんにファンになってしまった。
 あれから早や四半世紀以上経ち、昨年からアブデル・ラーマン・エル=バシャと共に満を持してベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ全曲演奏会に取り組んでおられる。今年はその第2回。フィリアホールは客席数500、室内楽を聴くには最適の規模。ただ9割程度の入りで当日券も残っていた。もったいない。
 堀米さんは両肩から透明な羽根の垂れ下がったような袖の付いた紺のキャミドレス、エル=バシャは詰め襟だが前が少しだけ開いた黒の上着、その下は白シャツにノーネクタイ、黒ズボン。

 第4番第1楽章、ピアノの音量は決して小さくないのだが静かな雰囲気で始まる。ヴァイオリンはピアノからメロディを受け継ぐ5小節目以降はやや抑え目で、悲しみを内に秘めているような雰囲気。しかし29以降の第2主題では心の傷を優しくいたわるような弾きぶり。もうこれだけで「ああ、今日は来てよかった」という気分に。展開部以降は徐々に緊張を高めてゆき、210以降で頂点に達するがすぐにまた元の静けさに戻る。
 第2楽章、ピアノもヴァイオリンも8分音符2つのフレーズを休符を挟みながら繰り返していくのだが、個々のフレーズは細切れにならず、むしろ音楽は伸びやかに流れる。33以降はきっちり弾く中にもどこか愛らしさが感じられ、少女たちのフォークダンスが思い浮かぶ。
 第3楽章では一転して憂鬱な雰囲気に。第2楽章に少し似た曲想の74以降になると、再び愛らしさが戻ってくる。次の「春」を先取りしたみたいな114以降、息の長い「癒しの歌」に聴き惚れる。223以降感情が高ぶり、ヴァイオリンとピアノは一体となって盛り上がる。中間部の主題が回帰する248以降の曲想の変化も鮮やか。

 第5番第1楽章、控え目の音量で始まるヴァイオリンの第1主題は流麗という言葉がぴったり。3のG−Fの音型をややたっぷり響かせるので、さらになめらかな流れになる。季節はずれの春のそよ風が僕のほおをなでてゆく。40〜42などの下降音型でもスタッカートは付いているがレガートを守っている。74以降繰り返されるピアノの音階の山も、一つ一つの音は立っているが全体の流れはなだらかで、桜の花が咲き誇る丘が連なっているような感じ。
 第2主題、「田園」の第2楽章を先取りするような森の情景。まだ弱い春の日差しが木々の間から漏れてくる。居眠りした誰かのいびきさえ聞こえなければ言うことなかったのだが。
 第3楽章、10〜12の8分音符2つの組合せを、桜の蕾を両手で覆って寒風から守るかのように大事に響かせる。
 第4楽章、ヴァイオリンもピアノも終始伸びやかに歌う。特に終盤の206以降は両者の息がぴったり合い、全体の響きがどんどん豊かになってゆく。ヴァイオリンの最後の音もバチッと切れることなく、爽やかな余韻を残して終わる。

 第10番第1楽章、冒頭のヴァイオリンが小ぶりだが可憐な花を咲かせる。続く10〜19のヴァイオリンとピアノのユニゾンがこれまたきれいでうっとり。この曲が「クロイツェル」の陰に隠れているのがもったいなく思えてくる。
 第2楽章、冒頭のピアノの和音がこれまでにない暗さと深さを醸し出す。9から加わるヴァイオリンの下降音型も、世の中との縁を切って孤独の中へ沈もうとするかのように聴こえる。晩年の弦楽四重奏曲の世界を予告するような雰囲気。
 しかし、沈みきらずに第3楽章へ。スケルツォ主部では皮肉を吐いて世間に反発するが、トリオではヴァイオリンの歌がそんな気持をまたもやさしく慰めてくれる。
 第4楽章、変奏曲風で後期のピアノ・ソナタを思わせる深遠な世界の入口にまでは来るが、その中に完全に入りきらないところがややもどかしい。そして最後はこれまでの試みをご破算にするかのような単純な終止形で曲を結ぶ。最後まで聴くと「やっぱり『クロイツェル』には負けるか…」と思ってしまう。かなりせわしない曲想の変化を2人ともきっちり弾き分ける一方、全体的なまとまりも保たれている。

 堀米さんの清流のようなフレージングはこの日もいつもと変わらない。水しぶきのように響くグァルネリの音色がそんな彼女のスタイルによく合っている。終始余裕の表情で弾かれるのでこちらもつい肩の力が抜け、ベートーヴェン全曲に挑んでおられることすらしばし忘れてしまう。
 エル=バシャを生で聴くのは初めて。最近の活動ぶりからショパン弾きかとばかり思っていたが、ベートーヴェンのピアノ・ソナタも既に全曲録音済。3曲とも暗譜で弾いているのには驚いた。それにピアノの蓋を全開しfやffもスコア通りしっかり鳴らすが、ヴァイオリンをかき消さないギリギリのところでバランスを維持。音の輪郭は明確だが冷たくならず、表情豊かに歌うがアンサンブルの枠をはみ出さない。正に職人芸。
 ホールの残響は適度だし、ヴァイオリンとピアノの響きがバランスよく混ざるところもすばらしい。正に第3の楽器として名演を引き立てる。

 わが家からはやや行きにくいが、乗り込む価値は十分あった。来年11月21日に第3回が予定されている。第1〜3番と「クロイツェル」という盛りだくさんのプログラムだが、今から待ち遠しい。

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