三島由紀夫 近代能楽集「綾の鼓」「弱法師」(18回公演の15回目)
○2008年10月10日(金)19:00〜21:10
○新国立劇場小劇場
○RB列39番(バルコニー上手側最後尾から2席目)
○「綾の鼓」
 岩吉=綿引勝彦、華子=十朱幸代、加代子=内田亜希子、藤間春之輔=国広富之、戸山=奥田洋平、金子=金替康博、マダム=多岐川裕美、女店員=岡野真那美
 前田司郎演出
○「弱法師」
 俊徳=木村了、桜間級子=十朱幸代、川島=鶴田忍、川島夫人=多岐川裕美、高安=国広富之、高安夫人=一柳みる
 深津篤史演出


名優たちを生で観る興奮
 
 1960年代前半生れの僕にとって三島由紀夫という人物は決して身近な存在ではない。70年のいわゆる「三島事件」など覚えていてもおかしくないのだが、あの頃の僕は大阪万博に何回行けるかしか興味がなかった。その後は学生運動に関わった人々とともに過去の存在として追いやっていた。左翼もナショナリズムも一緒くただった。
 三島の演劇はもちろんその後も頻繁に上演されてはいるが、代表作と言われる「サド侯爵夫人」にせよ「鹿鳴館」にせよ、どこか取っ付きにくくて敬遠していた。それが今回足を運ぶ気になったのは、大好きな女優、十朱幸代が生で観られると知ったからである(ミーハーやな〜)。ほぼ満席の入り。
 舞台は客席以外の三方が床から2メートルほど浮いたコンクリートの無機質な壁に囲まれ、正面後方には上手と下手に1本ずつ奥へつながる通路がある。

 「綾の鼓」、上手側が洋裁店で手前にソファとテーブル、端に姿見。下手側が法律事務所、手前端に白い桂の木、奥に岩吉の机と椅子。洋裁店と法律事務所の間には壁も何もない。中央奥の壁の手前に「所」を指示するト書きの書かれたパネル(最後列からでも読めるくらいの大きな字)が吊るされている。床にはチョークで書かれたような白い線の模様。銀座の地図を象徴させているのだろう。
 暗転から舞台が明るくなると、岩吉が床を掃いている。黄土色のベストがズボンからはみ出ている。加代子は客席側、つまり窓側を向いて口紅を塗っている。洋裁店に現れる男3人はどこかぎくしゃくした様子で入ってくる。初対面だからと言うだけでなく、恋敵同士のさや当ても連想させる。藤間は薄緑の着物姿、金子は三つ揃い、戸山はベストのないスーツ姿。外務省職員の金子は華子に向かって両手を広げ、腰をかがめて出迎えるなど、仕草や話しぶりがしばしば大仰でステレオタイプの役人をさらにデフォルメしたような感じ。マダムも少し無理して座を盛り上げたり和ませたりしている。藤間は普通の踊りの師匠という感じ。戸山だけいかにもと思わせる語り口や仕草がない。平凡なサラリーマンという設定なのだろう。ツーピースに帽子をかぶった華子が登場し、ラブレターの主の年代を聞かれると、赤い手袋をしたまま指を出してゆく。ソファに座った後はほとんど動かない。岩吉からの手紙に目を通すがその肩越しに男たちが読み上げる。読み終えた華子はマダムに渡す。岩吉の独白の場面などでバックに時計の秒針の音が流れる。
 綾の鼓に手紙をくくり付けた男たちは舞台最前で客席に向かい、岩吉を呼ぶ。岩吉も最前まで来て客席側を向く。金子が鼓を客席に向かって放ると舞台下の黒子が受け取り、下手側のもう1人の黒子が岩吉に向かって別の鼓を投げ上げる。岩吉、鼓を桂の木の枝に吊るし、客席に向かって後ろ側の面を叩くが当然音はしない。反対側も叩くが鳴らない。絶望した彼は下手端の低い壁にまたがり、その姿勢のまま舞台袖に向かって身を投げる。岩吉の自殺を知って狼狽しながら店から出て行く男たちとマダム。最後に残った華子はしばらく出て行くのをためらっているが、やがて走り去る。
 暗転の間に冥界から誰かが唸っているような声が流れる。上手奥から懐中電灯を持った華子登場。ボリュームのある白いショールで肩をすっぽり覆っている。亡霊を呼ぶと下手奥から岩吉登場。生前の姿そのまま。華子はショールを脱いでソファに置き、煙草を吸いながら岩吉と会話。岩吉が再び綾の鼓を叩くと本物の鼓の音が流れる。しかし、きこえないと華子が言うので岩吉はさらに打ち続け、「百打ち終わった」と言うが百回目は実際には鼓を両手で持っているだけで叩いていない。岩吉が去った後タキシード姿の戸山が入ってくる。華子、彼に抱きかかえられるがすぐ気付いて突き放す。「あと一つ打ちさえすれば」と言いながら右のこぶしでみぞおちのあたりを強く打つ。きこえぬことが男と女の間の埋め難い溝を象徴。

 綿引は野太い声がよく通るが、岩吉を演じるにはまだ力強過ぎる感じがする。十朱はセリフの最初の方こそ絞り出すような低い声だが、だんだん高い声になり、岩吉にさらに鼓を打つよう促す場面は絶叫に近くなる。多岐川のマダムが大仰で浮付いた声で、富士真奈美を思わせる。失礼ながら彼女にこんなセリフ回しが出来るとは思わなかった。国広は落ち着いた言動の中にも性根のいやらしさを垣間見せる。

 「弱法師」、床には色とりどりの正方形のタイルが敷き詰められている。上手手前に椅子。奥は壁のみ。上手側の通路から出てきた俊徳が座り、下手側の通路からは川島夫妻と高安夫妻が登場し、後方に横一列で並ぶ。その状態で一旦暗転になり、脚本の「時」と「所」がアナウンスされる。再び明るくなると椅子には俊徳に代わり薄灰色の和服姿の級子が座っている。これも演出のうちか?それともアクシデントか?
 川島夫妻と高安は洋服、高安夫人は和服。洋服は黒地に型紙のような実線や点線が入っている。線の色は川島は緑、川島夫人は赤、高安は黄色。川島夫人の服には幅広の逆V字型の襟。笑って口元を隠す時などに使う。高安夫人の和服は黒地にオレンジ色の縁取り、背中の帯にも同じ色の丸い紋が入っている。
 両夫妻はいずれも客席側を向いた状態で話し合う。川島夫人は俊徳を見つけたときの様子を、しゃがんで5歳の彼の姿を真似ながら話す。4人は感情が高ぶってくるとだんだん前に出てくる。級子は4人のやり取りを下手端に立って聞いているが、双方の対立が鮮明になると4人の前を通り過ぎて仲裁。椅子を中央に移動し、俊徳を呼ぶことにする。
 俊徳は白のスーツ、シャツに薄緑のネクタイ。黒サングラスをかけ、杖を床に突きながら登場。まっすぐ手前に歩いていくと、川島夫人が椅子を鳴らすので、音のする方に戻って椅子に斜め座りする。俊徳は近寄る高安夫人の手を払いのける、川島から煙草を受け取って火を付けてもらうなど、両夫妻とは直接接触するが、両夫妻のせりふは相変わらず客席に向かって発せられ、互いに目を合わせることはない。俊徳は「僕は光なんだ」と主張しながらネクタイをはずし、シャツの上のボタンをはずす。両夫妻は椅子を奪い合っては床を鳴らして俊徳を呼び寄せようとするがうまくいかない。俊徳は杖を突きながらしばしば舞台に飛び出しそうな勢いで歩いてゆき、そのたびに級子に止められる。
 別室で待つこととなった4人は1列で下手の通路へ退場するが、川島夫人は俊徳から吸いかけの煙草を取り上げ、級子に彼の毒に気を付けるよう忠告し、煙草を一服吸ってから退場。
 俊徳が空襲に遭った時の話をするうちに壁はだんだん赤くなる。級子が倒れている彼を抱き起こすと壁は元の色に戻る。級子の「いいわ、委せておきなさい」のセリフの後ト書きの「俊徳の手を取って、もとの椅子に座らせる」がアナウンスされる。しかし級子は椅子を持ってこず、上手の通路へ向かう。俊徳は床にじかに座る。最後のセリフ「誰からも愛されるんだよ」の後、彼の手に持っていた杖が床に落ちる。級子はそのまま何も言わず立ち去る。自分の人生の原風景を否定された俊徳は、もはや誰からも愛されていると信じることにしか生きるよりどころがなくなっている。

 木村は空襲のトラウマから逃れられない盲目の青年を熱演。対する十朱は、いつもの男が甘えたくなるような愛らしい声で終始両夫妻や俊徳に接しているが、俊徳が語る空襲の風景についてはきっぱり「みえません」と答える。多岐川もマダム役とは打って変わって、いつもの上品だがどこか冷たさの残る声と語り口に戻っている。鶴田、国広、一柳も手堅く脇を固める。

 「綾の鼓」は51年発表、翌年初演。「弱法師」は60年発表、65年初演。いずれも今の我々が観ても新鮮さが失われていないだけでなく、禅問答を思わせる結末は、我々が忘れてしまった昔の日本人の価値観を刺激する。他方初演時の舞台を観ていない僕としては、今回の2人の演出家がどこでどのように新たな試みをしているのか、よくわからなかった。ただ、食わず嫌いだった三島が少し身近になった気はする。
 それにしてもテレビで観慣れた俳優たちを生で観られるというのは、何とも言えない贅沢。深刻なストーリーを追いつつも、どこかでウキウキしている自分がいたことを白状しておく(やっぱりミーハーやんか!)

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