八月納涼歌舞伎第三部(19回公演の10回目)
○8月18日(月)18:15〜21:10
○歌舞伎座
○3階2列18番(3階正面2列目中央やや下手寄り)
○「紅葉狩」
 更科姫実は戸隠山の鬼女=中村勘太郎、余吾将軍平惟茂=中村橋之助、山神=坂東巳之助、腰元岩橋=片岡市蔵他
○野田版「愛陀姫」
 愛陀姫=中村七之助、木村駄目助座衛門=中村橋之助、濃姫=中村勘三郎、織田信秀=坂東三津五郎、斎藤道三=坂東彌十郎、祈祷師荏原=中村扇雀、祈祷師細毛=中村福助、鈴木主水之助=中村勘太郎他

激辛と甘口を加えた野田版「アイーダ」

 八月恒例の納涼歌舞伎へ久々に足を運ぶ。どの演目も面白そうだが、オペラ・ファンとしては、何を置いても野田秀樹の新作歌舞伎を観ないわけには行かない。ほぼ満席の入り。

 「紅葉狩」、舞台全体に広がる紅葉の紅色が目に鮮やか。今さら驚くことでもないが、書割と作り物の葉っぱとわかっていても全く安っぽく見えないのが歌舞伎の舞台の凄いところである。勘太郎がお姫様と鬼女をどう演じ分けるかに注目。意外と言っては失礼だが登場の場面からおしとやかな姫の雰囲気がよく出ている。ただずっと観ていると少しおとなし過ぎる感じもする。もう少し色気が出てきてほしい。扇子を持って踊る場面でやや危なっかしいところもあったが、太鼓が入って徐々に鬼女の本性が現れ、速足で退場する場面の動きの切れは見事。
 橋之助の惟茂を安心して観られるのは当然として、鬼女に変身した勘太郎もがっぷり四つに渡り合い、迫力では全く負けていない。巳之助の山神は声が少し辛そうだったが、立ち姿は立派。市蔵の岩橋が見せる滑稽な仕草が場を盛り上げる。

 「愛陀姫」はもちろんヴェルディの傑作「アイーダ」を題材にしているが、時代と場所を日本の戦国時代に移し、歌劇における主な登場人物は以下のように置き換えられている。

 アイーダ→愛陀姫(織田信秀の娘)
 ラダメス→木村駄目助座衛門(きむらだめすけざえもん)
 アムネリス→濃姫(斎藤道三の娘)
 アモナズロ→織田信秀
 エジプト国王→斎藤道三
 ランフィス→祈祷師荏原・細毛

 ちなみに歌劇に出てくるナイル川は「長良川」、ナパタの谷は「菜畑(なばた)の谷」となっている。
 緞帳が上がると舞台中央に蛇腹状の衝立が巻かれた状態で置かれている。これを広げると稲葉山の城下町になったり、城中の黄金の広間になったり、長良川になったりする。
 第一場、衝立のすき間から城下の人々があふれるように出てくる。荏原と細毛がインチキ祈祷でひと一儲けしたところへ濃姫が現れ、織田軍との次の戦の総大将に駄目助座衛門を選ぶべく二人を城に招く。
 第二場以降はほぼ歌劇の筋書きどおりに進む。総大将を望む駄目助座衛門の独白の背景に和楽器による「清きアイーダ」の旋律が流れる。ただ、濃姫に続いて愛陀姫が現れ、三人の腹の探り合いとなる場面の背景にも同じ旋律が使われると、やはりオペラ・ファンとしては違和感が残る。
 第三場は奥から玉座が出てきて城主道三登場。荏原と細毛は総大将の名を挙げるよう命じられ、濃姫は駄目助座衛門の名前を出すよう脅されるが、細毛はすっかりビビッてしまい、「ら」「だ」「め」「す」と頭文字を四つ叫ぶ。しかし、それをそばに控える家臣の一人が勝手に?解釈して駄目助座衛門に決まる。戦支度をして荷車の上に乗り、出陣せんとする駄目助座衛門を城主以下「勝って帰れ」と送り出すところで一同静止し、愛陀姫の独白となる。
 第四場、舞台前面に白布が下り、その前で荏原、細毛や斎藤家の巫女たちは戦勝祈願。白布に両軍の戦さの様子が映し出される。駄目助座衛門のシルエットがなぜか小人の敵の大将をつまみ上げることで斎藤軍の勝利となるが、映像は明らかに蛇足。

 第五場、舞台中央やや奥で群集が客席を向けて斎藤軍の凱旋に喝采を挙げている。そこから一人手前に出てきた愛陀姫を濃姫が見つけ、ついに駄目助座衛門への恋心を知る。
 第六場、凱旋の場面、玉座が舞台ほぼ中央に移動。背景には和楽器にトランペットが加わった凱旋行進曲が流れる。行進にはビニール風船の巨大な象が登場、客席は大受け。捕虜が連れてこられ、愛陀姫は父と再会。捕虜の扱いを占うようまたも荏原と細毛は命じられる。兵士や群集は殺せと叫び、濃姫も二人にまたも圧力をかける。しかし駄目助座衛門は愛陀姫への愛から助けるよう道三に懇願。板挟み状態の細毛はうろたえながらも殺すべしと告げて倒れる。しかし、結局道三は駄目助座衛門の意見を入れて釈放することにする。

 第七場、衝立が横一面に並べられて長良川を表現、その前に「戀神社」と書かれた表札と赤い柱、柱の下に四枚の黒御簾。結婚前の祈祷に来た濃姫が神社の中に入ると付き添って入った荏原と細毛がすぐに出てくる。荏原はインチキがばれる前に逃げ出そうと言うが細毛は今や自信満々。大方の人間の望みは同じで、その通りの予言をすれば当たるからここに居着くと、逆に荏原を納得させる。
 二人が神社の中に戻った後濃姫が出てくる。自分の恋の行方をあのインチキ祈祷師どもに決められてはかなわない、愛陀姫と駄目助座衛門の両方に手紙を送って二人を会わせ、彼の本心を確かめようという策略。愛陀姫が来るので一旦神社の陰に身を隠す。故郷に帰れない苦しみを嘆く彼女に対し、再び現れた信秀は祖国を救うため駄目助座衛門から斎藤軍の進路を聞き出すよう迫る。拒否する娘を裏切り者と非難するだけでなく母の死に様を思い出させて責める。しかし、しばらく間を置くと信秀は娘に甘く優しい言葉をかけるので、ついに愛陀姫は承諾。硬軟両様という日本的やり方ではあるが、やはりこの場面での父娘のやり取りは、父が容赦なく娘を追い詰めてくれないと、オペラ・ファンとしては気分が盛り上がらない。
 第八場、駄目助座衛門が現れると愛陀姫は一緒に逃げようと言う。最初は故郷を思う気持から拒否した彼も、愛陀への愛から承諾。斎藤軍の進路を口に出したところで信秀が現れる。濃姫たちも神社から現れ、信秀は自害を決意するが駄目助座衛門が思い止まらせ、愛陀ともども逃がす。追おうとする斎藤家の武士たちを押し止め、裁きを受けるべくしゃがみ込む。

 第九場、舞台中央に玉座を改造した短い廊下とマムシの絵の壁、その裏に駄目助座衛門の入った牢獄。表側に立つ濃姫、裏切り者を責める気持と駄目助座衛門への愛との間で揺れる。何とか彼を助けようと決意。舞台が回転して牢獄が正面になる。死を覚悟し、愛陀を自分から奪ったと避難する彼に向かい、濃姫は信秀は戦死したが愛陀姫は行方知れずと告げる。愛陀が死んでないことを知った彼は濃姫の申し出を頑なに拒否し「最も恐ろしいのは姫様の情け」と言い放つ。イタリア・オペラの世界なら「お前なんか愛していない」で済む話が、日本だとこう言わないと相手に伝わらないということか。裏では道三たちが集まってくる。
 第十場、舞台が再度回転して玉座に。道三の両脇に荏原と細毛が、これまでとは打って変わって居丈高な態度で立っている。その下に並ぶ巫女たちのさらに前に駄目助座衛門はひれ伏している。荏原と細毛の尋問が言い終わらぬうちに「何も答えぬ」と断言する道三、「裏切り者だ!」と叫ぶ巫女たち。たとえ駄目助座衛門が何か言おうと思っても言う暇を与えず、完全な出来レース裁判であることを強調。
 濃姫はその合間を縫って許しを求めるが、聞き入れられず、生き埋めの刑が決まる。そこで彼女は最後の手段に打って出る。つまり、荏原と細毛がインチキ祈祷師であることを暴露する。しかし、今や完全に権力側に立った二人は、もう濃姫なんか怖くないとばかりに過去の占いの実績を強調し、濃姫の訴えを蹴散らしてしまう。なおも彼女が食い下がるのでついに道三の怒りが爆発、討ち死にした信秀の子でうつけ者という評判の信長に嫁ぐよう命じる。駄目助座衛門は舞台前方の地下牢に入れられ、上から岩が載せられる。
 第十一場、舞台前面がせり上がると中央に駄目助座衛門のいる地下牢。歌劇場で地下牢が出てくると客席から拍手が起こってもおかしくないが、歌舞伎座ではいとも簡単にできてしまう。オペラ・ファンとしてはぐうの音も出ない。
 地下牢の上で濃姫は駄目助座衛門を単に弔うのでなく、自らが生き続ける決意を示して尾張織田家へ嫁いでゆく。その後駄目助座衛門の独白に続き、愛陀姫に再会。彼は彼女が若くして自分のために死なねばならないことに罪を感じ、牢の上の岩を動かそうとする。しかし彼女はそれを止めさせ、二人は結ばれる。ヨーヨー大の風船が一対、牢を出て天へと昇ってゆく。
 この最後の場面でびっくりしたのは背景音楽。何とマーラー「アダージェット」の中間部以外をほぼ全曲そのまま和楽器で演奏したのである。なぜここで「アイーダ」の音楽を使わなかったのか?愛陀姫と駄目助座衛門の死は愛の成就ではなく、やがて濃姫の夫織田信長が斎藤家を滅ぼす不吉な予兆であった。そのことを示すために、映画「ヴェニスに死す」にも使われた「アダージェット」を選んだのだろうか?

 まず評価すべきは題名役の七之助。ややもすればドタバタに気を取られそうになる前半から一人真剣な演技を貫き、悲劇の主人公を演じ切る。特に故郷へ帰りたいけど帰れない思いを吐露する独白には泣けた。橋之助も前半に続いて立派な男ぶり。台詞回しも歌舞伎調と現代劇調に巧みに使い分けている。濃姫の慈悲を拒否する場面にはやはり泣かされる。
 これに対し濃姫を演じる勘三郎の存在感が珍しく薄かった。終盤になるほど声が伸びず、濃姫の心情がなかなか伝わってこない。
 ただ、これは濃姫の位置付けにも原因がある。「アイーダ」におけるアムネリスは、エジプト王女としての身分的優位をアイーダやラダメスに対して用いないわけではないが、ラダメスへの想いの純粋さは決してアイーダに引けを取らない。アムネリスの悲劇は、アイーダと同じように純粋な愛を捧げたにもかかわらず、ラダメスに一顧だにされなかったことにある。しかし、「愛陀姫」における濃姫は、第九場で愛陀姫への嫉妬ゆえに駄目助座衛門を追い詰めてしまったと言って悔いる。つまり二人に対して自分の非を認めるのである。
 そして最後は罰として織田家に嫁ぐことが彼女に第二の人生を与えることになる。これが将来の両家の行く末への伏線となることはわかるが、それが濃姫の駄目助座衛門への愛とどう結びつくのかが明確でない。わざわざインチキ祈祷師を城に招いてまで成就させようとした彼への思いは、自分の夫が自分の本家を滅ぼすことでどう影響を受けるのか?つまり信長という新しい男が現れることで、駄目助座衛門との関係が曖昧になってしまっているのである。
 このため、勘三郎自身濃姫をこの芝居の中でどう位置付け、どう演じるかの確信がまだできていないような気がするのである。

 これに対しこの芝居の最大の功労者は扇雀と福助。まず荏原と細毛という役は、野田の最高のヒットである。保守的な僧侶ランフィスを題材にしたと思われるが、これをインチキ祈祷師という胡散臭く世渡りに敏感な人物に設定し直して、物語の展開に激辛の味付けを施した。それを二人が見事に演じる。
 特に福助は前半女形の声でハチャメチャにずっこけまくり、こっちは笑いが止まらなくて死にそうだったのに、後半はカリスマ祈祷師になり切り、地声で誰にも文句を言わせない存在として権力を振るう。天晴れ!

 前半は野田秀樹得意の言葉遊びと大げさな動きをふんだんに盛り込み、原作が悲劇であることをすっかり忘れさせるが、後半は野田独自の台詞を追加・修正することで日本人の情に訴えやすい悲劇としてまとめている。大きな芝居の流れはうまくできているし、作品としての完成度はかなり高いと思う。今後の改訂で先に触れた疑問点を解消していけばさらに魅力的な芝居になる。今から再演が待ち遠しい。

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