志の輔らくご ひとり大劇場(3回公演の2回目)
○2008年8月16日(土)14:00〜16:35
○国立劇場大劇場

○3階11列17番(3階最後方から2列目下手側ほぼ中央)
○「生まれ変わり」「三方一両損」
 「中村仲蔵」

中村仲蔵に笑い泣き
 
 昨年から始まった志の輔師匠の国立劇場での特別興行。前回行けなかったので、とにもかくにも駆けつける。師匠自身が枕で話していたように、お盆でかつ北京オリンピック開催中にもかかわらずほぼ満席の入り。
 1階には花道が付けられているだけでなく、舞台上手端には揚幕とチョボ床、下手端には黒御簾が歌舞伎と同じように設置されている。ただ中央には「志の輔落語 ひとり大劇場」と書かれた立看板が置かれているだけ。このままの状態で出囃子が始まるのでどうするんだろうと思っていたら、回り舞台が動き始め、裏側にあった高座が正面に出てくるという趣向。逆U字型の白無地の壁が高座の後ろを取り囲んでいる。

 志の輔師匠は揚幕の奥から登場。一席目の「生まれ変わり」は、不慮の死を遂げた男が生まれ変わるチャンスを与えられ、鳥にするか木にするか悩んだ挙句、待ち時間こそ長いが人間を選ぶことにする。最初は女を希望するが選択肢が両極端な上、男にとって好ましい選択肢(例えば「胸が大きい」)には必ず理不尽な抱き合わせ(例えば「子供はぐれる」)が付いてくる。そこで男に変更し、「酒が飲める」「おしゃべり」「動かない仕事」の3つを選択するが、その後に「金持ちか貧乏か」の選択肢のあることに気付く。金持ちを選択しようとするが時間切れで認められず、結局男はその条件で次の人生を待つことになる。その結果生まれ変わってきたのが、実は志の輔師匠だったというオチ。
 元々は桂三枝の創作落語なのだそうだ。確かに場面の設定や筋の展開には三枝風の荒唐無稽なところがあるが、志の輔師匠が演じると「生まれ変わり受付所」みたいなところが本当にありそうな気がしてくるから不思議。
 演じ終わると座布団上の師匠はそのまませり下がってゆき、その前を黒い大きな板が2枚すれ違う。

 舞台が再び回転して三味線、笛、太鼓のお囃子が現れ、間奏曲のように雰囲気を盛り上げる。もう一度回転して高座が再び現れ、師匠もせり上がってくる。

 ニ席目は大岡越前の名裁きでおなじみの「三方一両損」。普通なら越前の判決に吉五郎、金太郎や大家たちはなるほどと納得するはずなのだが、これまた志の輔師匠の手にかかると、「何でお奉行様が一両出さなきゃならないんですかい?」てな調子でケチがつく。知恵を絞った名裁きも所詮は権力者の自己満足に過ぎないのではないか?と聴く者の常識に一石を投じる。

 休憩中外は土砂降り。偶然だろうが「中村仲蔵」にはおあつらえ向き。斧定九郎の役作りに悩む仲蔵がにわか雨に遭って蕎麦屋に駆け込んでくる浪人に出会う場面など、さっきの雨音が頭に甦ってきて臨場感が増してくる。いよいよ定九郎を演じる場面では、まるで仲蔵がいるかのように登場の際には花道に明かりがともり、ツケ打ちなどの演出が加わる。客から全く反応がないのでしくじったと早とちりした仲蔵、上方へ逃れるべく家を出て、芝居帰りの客たちがなじみの茶屋で感想を漏らすのを小耳に挟む。前代未聞の定九郎に感動する客たちを演じる師匠を見るうちに、こっちまで泣けてくる。しかし、続けて客と店の者との滑稽なやり取りに笑けてくる。また泣けて、また笑って、だんだん顔がぐしゃぐしゃになってくる。
 オチは仲蔵を名代に引き上げた團十郎が、大阪へ行くまでに死のうと思ったと話す仲蔵に向かって「芝居の神様が死んだら仏になっちまうじゃねえか」というもの。大昔テレビで三遊亭円楽が演じていた時とは違うパターンだった。
 ただ、演じた後高座後方の壁に破れた傘や定九郎の出で立ちなどを映像で見せるのは蛇足かも。少なくとも個々の映像がコラージュ風に短時間しか出てこないのは、あまり効果的とは言えない。あれなら志の輔師匠の言葉だけで十分。

 一席目の枕で師匠が話していたが、国立劇場大劇場は客席数(1600席)の割には空間がコンパクトにまとまっている感じで、意外と落語を演じるには適しているのではないか、とのこと。確かに3階ほとんど最後列でも師匠の顔の表情は何とか見えるし、ときどき聞き取りにくい箇所はあったが、舞台との距離はさほど遠い感じはしない。歌舞伎風の舞台設定とも相まって、落語の伝統芸能としての重みを再認識。

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