新国立劇場「氷屋来たる」(20回公演のうち10回目)
○2007年6月28日(木)18:30〜22:15
○新国立劇場小劇場
1階D2列9番(1階13列目ほぼ中央)
シオドア・ヒックマン(ヒッキー)=市村正親、ドン・パリット=岡本健一、ラリー・スレイド=木場勝己、ハリー・ホープ=中嶋しゅう、ジェイムズ・キャメロン(明日屋ジミー)=花王おさむ、ウイリー・オーバン=大鷹明良、ロッキー・ビオッジー=たかお鷹他
○ユージン・オニール作
○栗山民也演出


最初から最後まで悲劇になってしまっている悲劇

 栗山氏が新国演劇部門の芸術監督として手がける最後の作品。ほぼ満席の入り。
 客席の天井から裸電球が一つぶら下がっている。幕が開くとハリーの酒場。雑然と並ぶテーブルと椅子。男たちが酔いつぶれて眠っている。中央やや下手寄りの奥に2階へつながる階段、上手側を2段昇ると立ち飲み席とカウンター席のようなスペースがあり、上手端が店の入口へつながっている。
 各幕それぞれ2つの場に分かれ、第1幕前半はヒッキーを待つハリーたちの期待と苛立ち、ようやくやって来たヒッキーが「アホな夢を捨てて心の安らぎを得よう」と説教し始め、一同に波紋を巻き起こすところまで。後半はテーブルが横一列に並べられ、ハリーの誕生パーティが始まるが、ヒッキーの妻の死が明らかになって座が凍りつくところまで。ケーキのろうそくに付けた火をハリーも誰も消さないまま幕が下りる。
 第2幕は第1幕前半とほぼ同じ舞台。前半はヒッキーの言葉に影響されて大半の男たちが自分の「アホな夢」を実現すべく酒場を出て行く。後半は戻ってきた男たちがヒッキーを吊るし上げるが、やがて刑事2人が彼を逮捕にやってくる。彼は妻を殺した一部始終を話して刑事に連行されていく。残った者たちはヒッキーは「気違い」(実際のセリフで使われている言葉なので、劇場の雰囲気を可能な限り正確に伝えるため、ここでもあえてそのまま使用する)だと片付けるが、みな行くべき方向を見失ってしまう。

 いつもは気の利いたジョークで一同を和ませてくれたヒッキーが彼らの心の底を見透かし、先延ばしを許さない。柱にかかった時計の針を12時過ぎに動かし、明日でなくもう今日であることを目の前に突きつけて「アホな夢」を実現すべく大半の仲間を行動させる。しかし、誰1人夢を実現することなく戻ってくる。それはヒッキーを含めみな行動する前からわかっていたことだ。
 ではなぜわざわざそんなことをさせたか?それはヒッキー自身の経験をみなに理解させるためだった。夫がいつかは浮気を止めるという「アホな夢」を決して捨てようとしない妻にだんだん精神的に追い詰められたヒッキーは、その夢が実現不可能であることを悟らせるために妻を殺すしか手段がなくなってしまう。
 それは裏返せば、妻の「アホな夢」を捨ててほしいというヒッキーにとっての「アホな夢」を実現する唯一の手段が、殺害しかなかったということでもある。
 しかし、妻を殺す直前彼は彼女への憎しみを口にしてしまう。この世でたった1人愛していた妻のことをなぜ「くそばばあ」呼ばわりしたのか、そこだけがどうしても自分で整理がつかない。あの時自分は「気違い」になっていたのだ。そう解釈するしかない。
 なぜ彼が逮捕される前にハリーの酒場に来たかと言えば、このことを仲間に認めてもらいたかったからである。そのために彼はまず、殺すか殺される以外の方法で彼らの「アホな夢」を捨てさせる、という手の込んだことをしたのだ。

 これでヒッキーは死刑か精神病院送り(おそらく前者だろう)になり、自分の人生に決着をつけた。ここまではいいが、哀れなのは残されたハリーたちである。「アホな夢」を捨てて心の安らぎが得られたかと言えば、全くそんなことはない。逆に彼らは生きるよりどころを失ってしまった。だからヒッキーが手配したアルコール抜きのウイスキーを飲んで酔った振りをし、自分の行動を「アホな夢」に代わる別の嘘で取り繕って立ち直ろうとする。しかし長続きしない。彼らは完全に行き詰ってしまう。
 このからくりを全て見抜いたのは元無政府運動家のラリーだけだろう。だからヒッキーが連行された後もハリーたちのバカ騒ぎに加わらない。
 ただし、ラリーがかつて愛した女性同志の息子ドン(たぶん父はラリー?)だけは、彼なりの人生の決着をつけるのに成功する。彼は幼い頃から何事も母の言う通りにしなければならず、そのために自分で何一つ物事を決められない。無政府運動に嫌気が差し、母を憎むあまりドンはラリーを含めた仲間を警察に売る(それすら他人のアドバイスなしにできなかった)。でもその後の身の処し方がわからずラリーを頼ってきた彼は、ついにラリーから「死刑宣告」を受けて自殺する。

 「アホな夢」を捨てても悲劇、捨てなくても悲劇。捨てれば自分で人生の決着をつけるしかないが、つけても悲劇、つけられなくても悲劇。だが最も悲劇的なのは自分の夢がそれなりに実現し、まさかそれが「アホな夢」であるかもしれないと疑うことすらしない観客なのか?

 劇中のキーワードの一つである「アホな夢」という訳がどうも引っかかる。原語はPipe Dream、つまりアヘンをパイプで吸った時に思い浮かぶような妄想という意味。それなら、例えば「バカげた夢」「他愛のない夢」あたりの方が適切な感じがする。

 オニール自身はこの作品を「序幕が抱腹絶倒、でもやがて喜劇性は崩壊し、悲劇になってしまうような喜劇」と位置付けているが、観た感じは首尾一貫した悲劇である。なぜなら劇中のジョークはみなジョークを飛ばす本人の悲劇性を際立たせる機能しか果たしてないように見えるからだ。
 そう思わせるのは、筋の通った演出と、それに合わせて俳優たちが緊密なアンサンブルを練り上げていたせいかもしれない。すなわち、終盤に出てくる刑事2人以外は、紆余曲折を経るものの最終的にみな同じ境地へ達するように見える。その間俳優たちの誰1人として突出も脱落もしない。生真面目な舞台作りが喜劇性を見事に排除している。それを観客たちが舞台上の俳優たち以上に生真面目に受け止めているように見える。
 原語で観ると特に前半はもっと素直に笑えるところが多いのかもしれない。アメリカの観客の方が簡単に笑うし。
 ただ、これだけ重いテーマを扱う長丁場の芝居でありながら、不思議と疲れずに最後まで観られた。

 栗山監督、長い間お疲れ様でした。

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