新国立劇場「コペンハーゲン」(17回公演の11回目)
○2007年3月13日(火) 19:00〜22:00
○新国立劇場小劇場
○バルコニーRB40番(2階上手サイド最奥)
○ボーア=村井国夫、マルグレーテ=新井純、ハイゼンベルク=今井朋彦
○マイケル・フレイン作
○鵜山仁演出

世界は破滅か存続か

 本当はもう少しお芝居も観たいのだが、なかなか時間が取れない。しかし、これだけは何とか観ておきたかった。初演以降世界で話題になり、2001年新国で初演された時にも各種演劇賞を獲得し、周りからも勧められていたにもかかわらず、逃してきたからだ。8割程度の入り。

 円形舞台の外側に同心円状の回廊。僕の席からはよく見えないが、通路手前は穴のようになっているらしい。舞台に置かれた3脚の椅子。上手端に置かれた椅子だけ肘掛けがない。劇が始まる前に流れるベートーヴェンのチェロ・ソナタの演奏にLPを再生した時のようなノイズが混じる。でもその後挿入されるBGMにはそんなノイズはない。いちいちそんなことを気にしながら3人のやり取りにのめりこむ。
 1941年ドイツ占領下のコペンハーゲン、ナチス・ドイツにとどまって研究活動を続ける物理学者ハイゼンベルクが先生であるボーアの家を危険を承知で訪れる。その時に交わされた会話をめぐり、まずはボーアの妻マルグレーテを含めた3人の感情のもつれをときほぐしていき、真相究明のスタートラインに立つまでが前半。
 後半はハイゼンベルクがボーアを訪ねるところから3人の共同作業で振り返っていくが、核兵器製造が極めて困難であるとハイゼンベルクが確信していながらなぜボーアを訪ねる必要があったのか、という矛盾に突き当たってしまう。再度彼がボーアを訪ねるところからやり直す。そこでようやく、ボーアが彼の思い込みを知っていながらそれをあえて正さなかった、それによって結果的に彼は核兵器製造に手を染めずに済んだことがわかる。彼にとって師匠の怒りと破門のように見えた行為が実はこれ以上ない自分への愛だったことを知る。それと同時にボーアはハイゼンベルクの努力によって無事スウェーデンに亡命できたことを悟る。一同和解、一件落着かと思ったのも束の間、マルグレーテが納得していない。彼女は自分の夫とその最愛の弟子による成果が結局人類を破滅に導いているのではないかと悲観する。これに対してハイゼンベルクは最後に自らの成果である不確定性原理を持ち出して、それでも現にまだ世界・人類は存続していることを説明しようとする。

 僕としてはその後ボーアが何か言うのではないかと思ったのだが、芝居はそれで終わってしまう。3時間近く観客に頭の体操をさせておいて、最後はこっちにボールを投げて終わりかいな!と突っ込む元気もないくらいの疲労感に襲われる。作者にしてみれば、楽観は禁物だが絶望するほどのこともない。真実は両極端の間のどこかにあり、結局舞台の3人の「子供たちの子供たち」(+そのまた子供たち)がどうするか次第、ということなのだろうか。
 ハイゼンベルクが愛国心について語る場面が胸に痛く響いた。ボーアが「占領されているからと言って祖国を愛するのを止めるわけにはいかない」と誇りを示すのに対し、「間違った方向へ行っているからと言って祖国を愛するのを止めるわけにはいかない」といった意味のセリフ。わが国を含めいろいろな国のことを思い浮かべながら、口の中で極上のワインを味わうように頭の中で反芻していた。

 初演の時には江守徹が演じた役を今回は村井国夫が演じる。江守ボーアを観てないので比較は禁物だが、最後にハイゼンベルクに師としての愛情を示す場面は村井さんから醸し出る雰囲気がよく合っていたと思う。新井純ははまり役。若さから来るとげとげしさも、老いから来る未練がましさもない。ハイゼンベルクを非難する場面でも、芯のしっかりした声なのにどこか人生の経験から来る慈しみのようなものが伝わってくる。ある時は2人の男の中和剤となり、ある時は2人に波紋を投げかける。でも役柄が年齢的に近いことと今井朋彦の緩急自在の演技のためか、気がついたらハイゼンベルクにばっかり感情移入してしまっていた。

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