五嶋龍(V)(東京での2回公演のうち2回目)
○7月6日(木) 19:00〜21:05
○サントリー・ホール
○2階RA6列4番(2階ステージ上手側6列目手前から4席目)
○ピアノ:マイケル・ドゥセク
○イザイ「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番」
 リヒャルト・シュトラウス「ヴァイオリン・ソナタ変ホ長調」Op18(約28分)
 ブラームス「ヴァイオリン・ソナタ第2番イ長調」Op100(約20分)
 武満徹「悲歌」
 ラヴェル「ツィガーヌ」
+サラサーテ「ツィゴイネルワイゼン」


神童から若き巨匠へ

 6月20日、京都から始まった五嶋龍初のジャパン・ツアー。13回中ラス前の東京公演に何とか駆けつける。ほぼ満席の入り。親子連れが目立つ。筑紫哲也さんの姿も見える。

 黒の上下に銀色のネクタイ姿で登場。ステージ後方のPブロックの客に対しても丁寧にお辞儀する。
 冒頭のイザイを聴いていきなりショックを受ける。プログラムには異例のことだが、選曲の理由が彼自身の言葉でつづられている。しかし、それだけでは理解し難い強烈なインパクト。今まで聴いたことのないような厳しい音色、隙のないフレージング。「僕はもう神童ではありません。立派な大人になりました。そこんとこ、よろしく!」みたいなメッセージが伝わってくる。
 R.シュトラウスのソナタは、姉のみどりが19歳になる直前カーネギー・ホールにデビューしたリサイタルでも取り上げた曲。これを18歳になる直前の龍が弾く。五嶋家(つまり母親の節さん)のヴァイオリニスト育成方針がいかに揺るぎないものかがよくわかる。
 でも、2人の演奏スタイルは全く異なる。緊迫感に満ちた姉に比べ、弟の演奏は伸びやかですがすがしい。恐れを知らぬ若者、ジークフリートのように彼のヴァイオリンは青い空をどこまでも突き抜けてゆく。

 しかし、これで驚くのはまだ早い。ブラームスのヴァイオリン・ソナタの中で最も地味なイメージのある第2番を取り上げるのはどういう意図だろう?演奏を聴いていくうちに僕の疑問はある確信へと変わっていった。
 演奏家にとって曲との出会いにはしばしば運命的なものがある。今の龍にとって、このソナタは自分の持ち味を最大限に発揮できる曲であることに気づいたのだろう。それは今しかない、半年後にはもう失われているかもしれないくらいの千載一遇のチャンスだったに違いない。
 第1楽章第2主題のうっとりするような甘い歌、第2楽章中間部、ヘ長調のダンスの軽やかさ、そして第3楽章の確信に満ちた歌わせ方などを聴いていると、「僕はハーヴァードへ行ったらこんな恋がしてみたい」と告白しているように聴こえる(違っていたら、ごめんなさい)。

 一度こんな「妄想」が頭を占めるようになると、次の武満の作品などはさしづめ「もし失恋したらこんな気分になるのかなあ…」といった感じに聴こえてしまう(違っていたら、ますますごめんなさい)。

 「悲歌」の後袖に下がってからなかなか出てこないなあと思っていたら、何とピアニストともども、上着とネクタイをはずして黒の半袖シャツ姿で登場。「ツィガーヌ」冒頭のHよりも次のフレーズの方が速い。ヴァイオリンを抱えた身体を前に倒しながら、それまでとは打って変わって大道芸人の乗りで弾いていく。しかし、ピアノが加わってしばらく行った後、とんでもないハプニングが起きる。ヴァイオリンがニ長調のメロディを弾く前の所で沈黙。龍とピアニストが顔を見合わせ、彼が右手を広げて何かつぶやく。客席から笑いが漏れる。そして、何事もなかったかのように次に進む。まさかわざとやったわけではないだろう。ピアノが最初に入る直前ではピアニストの方に身体を向けてきっちり合わせていたのだから。アクシデントだとしたら、またも類い稀な危機管理能力を発揮したことになる。

 アンコールでは「ツィゴイネルワイゼン」を演奏。有名な割には意外と生で聴く機会がなかったかも。ここでも優しく歌う前半と世界新記録に挑むような後半のコントラストが痛快。

 鳴り止まぬ拍手の中、早々と手ぶらで登場し、聴衆に明確なメッセージを送る。それにしても、昨年11月にワシントンで聴いて以来半年強しか経っていないのに、彼の成長ぶりにはびっくり。あっという間にクラシック音楽家の枠をはみ出してしまうかもしれない。期待と不安が入り混じるのは僕だけだろうか?

 最後に聴衆の皆さんへ。楽章の間に拍手するのは止めましょうね。

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